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ATHLETES' CORE

車いすバスケットボール


 日本の車いすバスケットボール界のエース、藤本怜央選手。昨年のリオデジャネイロパラリンピックではキャプテンを務め、まさに「大黒柱」となってチームを牽引した。ここ数年、彼に会うたびに、ストイックさに磨きがかかっていることを感じる。なぜ、彼はこれほどまでに、自らを追い込もうとするのか。その背景には、いったい何があるのか――。

リオへの出発点となった父親からの言葉
「どんなに過程が良くても、結果として勝たなければ、何の意味もない」
 2012年、ロンドンパラリンピックを終え、帰国した藤本選手に、父親はそう言い放った。普段は穏やかな父親から言われたその言葉に、藤本選手はこれまでに感じたことのないほどの大きな衝撃を受けた。

「アテネ、北京の時には『お疲れさん、よく頑張ったな』と言ってもらえたんです。だから、ロンドンの時も同じように言ってもらえるだろうと、どこかで期待していました。ところが、『お疲れさん』のひと言もなく、『勝たなければ意味がない』と。まさか、そんなふうに言われるとは全く予想していなかったので、本当に驚きました」

 しかし、その父親の言葉に、藤本選手ははたと気づかされた。日本代表が何を求められているのか。そして、それに応えるだけのことを、果たして自分はやってきたのか……。自問自答の末に、思い出されたのはロンドンでの最後の試合を終えた直後に湧いてきた「後悔の念」だった。
「4年間、自分は決して限界と言えるほど、やってはこなかった」
 父親は、そのことを見抜いていたのだ。

 改めて日の丸を背負うということの意味、そして日本代表としての使命について考えさせられた藤本選手は、自分自身にこう誓った。
「『もうバスケをしたくない』と思えるほど、リオまでの4年間は、限界まで自分を追い込もう。そして、パラリンピックを終えた時、後悔ではなく、『これだけやってきたんだ』という達成感を感じている自分でいよう」
 こうして、藤本選手にとって4度目となる「4年間」が始まった――。

成長を促した悔しい敗戦
「バスケ人生における最大の転機」とも言える出来事が起きたのは、2014年7月のことだった。その年に行なわれた世界選手権で、日本は同じアジアの韓国に負けを喫した。藤本選手が2002年に代表入りして以降、ただの一度も負けたことのない「格下」と思っていた相手に、自らがエース、キャプテンとなった代のチームで負けを喫したことに、藤本選手は悔しさが募った。そして、それ以上に、感じたのは自らの力不足だった。

「エースである自分が、まだ弱いから、勝てなかったのではないか……」
 責任は自分にこそ、あるような気がしてならなかった。

 そこで藤本選手は、ある決断を下した。それまで話には上がってはいたものの、日本代表としての活動がままならなくなるということもあり、なかなか踏み出すことができずにいた「海外リーグへの挑戦」だった。ちょうど国内での活動だけでは、自らの成長に限界を感じつつあった時期でもあり、決断するのに時間は要しなかった。2カ月後の9月、藤本選手はドイツへと渡った。

 翌2015年5月、ドイツ・ブンデスリーガでのシーズンを終え、宮城MAXの一員として日本選手権に現れた藤本選手の姿に、誰もが目を丸くした。不要なものがそぎ落とされ、体がすっかり絞られていたのだ。聞けば、体重は10キロ近くも落としたという。トレーニングはもちろん、食事の面においても、毎日のメニューを管理栄養士に送ってアドバイスを受けるなど、徹底した末に出来上がった体だった。

 その日本選手権で、宮城MAXは決勝で埼玉ライオンズを64-19とまったく寄せ付けることなく圧倒し、7連覇を飾った。藤本選手の動きは、それまでのパワフルさにキレが加わり、インサイドだけでなく、アウトサイドからのシュートの確率も格段に上がっていた。その後、藤本選手はさらに凄みを増していったことは言うまでもない。

「自分を限界まで追い込めましたか?」
 2015年以降、藤本選手に何度かそう訊ねたことがある。彼は、ただの一度も「はい」とは答えず、「まだまだです」と、同じ言葉を繰り返した。それは、リオの開幕数日前、選手村で会った時もそうだった。
「あと何日かあるので、もっと追い込みます」
 そこには「4年前と同じ轍を踏まない」という、彼の頑ななまでの強い意思が感じられた。


リオで初めて味わった4年間への達成感
 こうして臨んだ自身4度目のパラリンピック。結果は、ロンドンと同じ9位に終わった。だが、最後の9、10位決定戦、試合終了のブザーを耳にした時、藤本選手の中に湧いてきたのは、4年前とはまるで違う感情だった。

「僕はこの4年間、常に苦しい道を選択し続け、そして、これまでとは比べものにならないほど、日本代表としての『使命』を考え続けてきました。正直、あんなに好きだったバスケが少し嫌いになりかけたくらいです。そこまで追い込んで臨んだので、最後の試合を終えた時、最初に出てきたのは『これで、やっと4年間の戦いに終止符を打てるんだ』という解放感に満ちた晴れやかな気持ちでした。ロンドンの時のような後悔の念は、一切起きなかったんです」
 
 帰国後、父親からはこんな言葉をかけられた。
「お疲れさん。よく頑張ったな」
 4年前以上の厳しい言葉が投げかけられると覚悟していた藤本選手は、あまりの予想外の言葉に驚きを隠せなかった。

 4年前、父親は「9位」という結果にではなく、パラリンピックにかける自らの姿勢にこそ、不甲斐なさを感じていたのではなかったのか。「日本代表としてのあるべき姿」。そのことを、息子にもう一度、見つめ直させるための父親からの温かい激励だった。藤本選手は今、そんな気がしている。

 とはいえ、藤本選手自身は結果に対しては当然、納得はしていない。解放感を味わった数日後には、もう気持ちは次に向かっていた。
「僕は今回、本気でメダルを取りに行ったんです。それでも、叶わなかった。でも、それで諦めるつもりはありません。一度口にしたことは、必ず実現させます」

 現在、藤本選手はドイツの地で世界のトッププレーヤーたちと鎬を削っている。ストイックなまでに自分を追い込み、心技体すべてにおいて磨き続けるその姿には、バスケにすべてをかけた男の生き様が映し出されている。

 再び「苦しみ」と戦い続けることを選んだ藤本選手。その先にある栄光を信じて、戦い続けていく――。


藤本 怜央(ふじもと れお)

車いすバスケットボール・4.5クラス/SUS株式会社、BG Baskets Hamburg、宮城MAX所属
1983年9月22日、静岡県生まれ。小学3年の時に交通事故で右足を切断。
義足を履きながら、小学校時代は主にサッカー、中学・高校時代はバスケットボールをしていた。
高校3年の時、初めて見た車椅子バスケットボールに魅了され、大学進学と同時に宮城MAXに入る。
日本選手権では、2016年まで12度の得点王、3度のMVPに輝き、
チームの8連覇(2011年は東日本大震災のために中止)に貢献。
19歳で初めて代表入りして以降、日本車いすバスケ界の中心的存在として君臨し続けている。
パラリンピックには2004年アテネ、2008年北京、2012年ロンドン、
2016年リオデジャネイロと4大会連続で出場。リオではキャプテンを務めた。
2014-15シーズンから、ドイツ・ブンデスリーガのBG Baskets Hamburgに所属している。
 
取材・撮影:越智 貴雄  取材・文:斎藤 寿子