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ATHLETES' CORE

卓球


 2016年9月8日、リオデジャネイロパラリンピック競技1日目。岩渕幸洋選手にとって、初めてとなる「4年に一度の戦い」が始まろうとしていた。予選リーグ初戦の相手は、世界ランキング2位の強豪。しかし、岩渕選手の頭にはしっかりと戦略が出来上がっていた。ところが――。
想定外の緊張感と試合展開
 待機していた選手通路から会場へとつながる幕が上がり、一歩足を踏み入れた瞬間、それまで落ち着いていた岩渕選手に、ドッと緊張の波が押し寄せてきた。それは、彼にとって想定外のものだった。

「もちろん、パラリンピックでは緊張するだろうとは予想はしていました。でも、国際大会を多く経験してきていたので、ある程度コントロールできると思っていたんです」

 しかし、その日の岩渕選手にはどうすることもできなかった。試合前から体が思うように動かず、ウォーミングアップのフォア打ちも、いつも通りに打つことができなかった。そして、いつの間にか試合が始まり、あっという間に0-7となっていた。自分が何をしているのか、何をすべきなのか、全くわからなかった。もう、がむしゃらにやるしかなかった。

 すると、今度は自分が一気に追い上げた。スコアは、8-8。普段ではありえない展開に、岩渕選手はただただ驚いていた。しかし、後で振り返ると、実はここが勝負のポイントだったに違いなかった。

「一気に7点も奪われる僕も僕ですけど、相手もそんな連続で失点するような選手ではないんです。ほんとに、普段では考えられないゲーム展開でした。でも、後で気づいたのですが、やっぱり相手もそれだけ緊張していたんだと思います。それを試合中に気付いていれば、と思うのですが、あの時は自分のことだけで精一杯で、相手のことを考える余裕はありませんでした」

 結局、ここから相手に3連続ポイントを奪われて1セット目を失うと、2セット目、3セット目も奪われ、岩渕選手はストレート負けを喫した。


目を覚まさせてくれた両親からの叱咤激励
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 2日後、予選リーグ2試合目が行われた。岩渕選手は気持ちを新たに「今度こそ」という思いで臨んだが、やはり体は思うように動かなかった。3-11と簡単に1セット目を奪われると、2、3セット目も相手から主導権を奪うことはできず、またもストレート負け。岩渕選手にとって初めてのパラリンピックは、まさに「あっという間」にフィナーレを迎えた。

 予選2試合目が終わった瞬間、岩渕選手の頭は真っ白になった。すぐにメディアからのインタビューに対応はしたものの、自分が何を言っているのか、何を言いたいのか、わからなかった。悔しささえも湧き上がってこないほど、頭も心も整理することができていなかったのだ。自分に何もさせてくれなかったパラリンピックという舞台の厳しさ、偉大さに、岩渕選手はただただ呆然とするしかなかった。

 そんな岩渕選手の気持ちにスイッチを入れてくれたのは、地球の裏側まで応援に駆けつけてきてくれていた両親からの温かい叱咤激励の言葉だった。

「オマエ、ここまで来て何やってんだ!」
 試合後、両親のいるスタンドに行くと、真っ先に父親の威勢のいい声が聞こえてきた。自分の力を出すことさえもかなわなかった息子の姿に、両親は悔しさを露わにしていた。そんな2人の姿を見て、岩渕選手はようやく負けたという事実を実感し、悔しさが込み上げてきたという。

「両親はいつも僕の試合に応援に来てくれているので、普段のプレーができていないことは、一目瞭然だったと思います。試合後に気合いを入れられるのはいつものことですが、でも、リオで言われたあのひと言は、やっぱり強く響きましたね。次に向けてスタートを切ることができたのは、あの時だったと思います」

 直前に出場の可能性が浮上したリオとは異なり、次の26歳で迎える2020年東京パラリンピックは、岩渕選手にとってずっと狙いを定めてきた「本番」である。その本番を前に、リオでは自分が目指し、戦おうとしている舞台が、どんなものであるのか、自分の目で見て、肌で感じ、そして沢山のことを学ぶことができた。

 岩渕選手は言う。
「考えてみれば、パラリンピックは4年に一度しかありませんから、慣れるなんてことはできないんですよね。だったら、『いかに緊張せずにできるか』ではなく、『いかに緊張した状態でも自分のプレーができるか』が重要なんだなとわかりました。自分なりに準備万端でいったつもりでしたけど、まだまだ甘かった。それに、自分に対しての『自信』も足りなかったと感じています」

 そして、こう続けた。
「パラリンピックというのは、スポーツの大会ではなく、『戦いの場』」でした」
 次こそは、「出場する」のではなく、「戦いに行く」つもりだ。


世界選手権初出場を機に「夢」から「目標」へ
 岩渕選手が「パラ卓球」の世界に足を踏み入れたのは、中学3年の時。中学1年から卓球部に所属していたが、自分のような軽い障がいではパラリンピックを目指すことはできないと考えていたという。しかし、中学3年の時に、彼を指導していたコーチによって、パラリンピックを目指す資格があることを知り、初めて障がい者の大会に出場したのが始まりだった。

 しかし、最初の大会で岩渕選手は全く歯が立たなかった。プレーのスタイルも、球質も、それまで彼が経験してきた健常者の卓球とは全く違うもので、相手からのボールに対応することができなかったのだ。その時は、こんな自分にはパラリンピックは程遠い夢としか思えなかった。

 パラリンピックが「夢」から「目標」へと変わったのは、2014年、大学2年の時だった。前年から本格的に国際大会に出場するようになった岩渕選手は、2014年に行なわれた世界選手権(北京)に初めて出場した。同大会は世界のトップ18が一堂に会する、パラリンピックに次ぐハイレベルな舞台。当時、世界ランキング25位だった岩渕選手は、将来の有望選手に与えられる招待出場枠「ワイルドカード」として出場した。

 結果は12位。目標としていたベスト8には届かなかったが、それでも大健闘と言っても過言ではなかった。そして、岩渕選手にとっては、この結果以上に「また、こういう大きな舞台で戦いたい」という思いが出てきたことの方が大きかった。「次の大きな舞台」は、2年後のリオデジャネイロパラリンピック。パラリンピックを強く意識し始めたのは、それからだった――。

 最近、岩渕選手には、「座右の銘」としている言葉がある。「絶対は絶対にない」。戦国の武将、織田信長の言葉だ。
「織田信長は『勝負に絶対はないから油断をしてはいけない』という意味合いで使っていたようなのですが、僕はこの言葉を聞いた時、まさに自分たちに向けられた言葉だなと思ったんです。『できない』ではなくて、色々と工夫して『できる』にかえるのが、障がい者スポーツの世界。だから『絶対にできないことは絶対にない』。そう思って、僕は卓球をしています」

「できない」は終わりではなく、「始まり」。そこからどうするかによって、未来が切り拓かれていく。岩渕はそう信じている。


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岩渕 幸洋(いわぶち こうよう)

パラ卓球・クラス9(立位)/早稲田大学教育学部
1994年12月14日、東京都生まれ。
先天性内反足。中学1年から卓球を始め、健常者の中でプレーしていた。
3年時に初めて障がい者の大会に出場し、翌年には全国大会に出場した。
大学入学後に本格的に国際大会に出場するようになり、
大学2年時には「ワイルドカード」で世界選手権に初出場を果たした。
同年のアジアパラ競技大会ではシングルスで銅メダルを獲得。
2015年には3大会でシングルスで優勝し、
世界ランキングが21位から11位に浮上。
昨年、リオデジャネイロパラリンピック出場を果たした。
 
 
取材・撮影:越智 貴雄  取材・文:斎藤 寿子