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ATHLETES' CORE

アーチェリー


2016年9月13日、リオデジャネイロパラリンピック決勝トーナメント1回戦が行われたその日、上山友裕選手は自らの体に異変を感じていた。「朝起きると、吐き気がして、ろくに話すこともできなかったんです」原因はわかっていた。ふだんは、たとえ国際大会でもほとんど感じたことのない「緊張感」が、上山選手を襲っていたのだ。
襲ってきた緊張感。肌で感じたパラの世界
 リオは、上山選手にとって初めての「4年に一度の舞台」だった。それでも予選は落ち着いて、いつも通りにできたという。その結果、予選を4位で通過し、自らもメダルへの可能性を感じていた。

 ところが、決勝トーナメントの舞台は、それまでの予選とはまるで違う光景が広がっていた。
「決勝トーナメントに入った途端に、スタンドが観客で埋まっていたんです。選手がいい点数を取るたびに、観客席からは拍手が起こる。そんなこと、世界選手権でさえもなかったので、少し怖さを感じるくらいでした」

 実は前日、上山選手は団体戦の決勝トーナメントが行われているのを見ていた。そこで、決勝トーナメントの雰囲気をつかみ、翌日の自らの試合では落ち着いていこう、と考えていた。だが、「想定内」だったにもかかわらず、自らを襲う緊張感をどうすることもできなかったのだ。
「あの時は、日本選手団で誰も金メダルを取ることができていなくて、予選4位だった僕に『もしかしたら』という期待が寄せられているのをひしひしと感じていました。無意識にそれがプレッシャーとなっていたのかもしれません」

 ただ、心とは裏腹に、体の方は予選から調子が良かった。そのため、1回戦を6-0でストレート勝ちすると、自然と気持ちも落ち着き、2回戦は6-4で競り勝ち、準々決勝へと進出した。あと1回勝てば、メダル争いに加わることができるところまできていた。しかし、結果は2-6で敗れ、準決勝へと進むことはできなかった。

 ゲーム終了後、上山選手にあったのは悔しさだけだった。
「帰国後、友人から『メダルには届かなかったけれど、目標は達成したんやから、良かったやん』というメッセージをもらったんです。それを見て、『あ、そうか。オレの目標はベスト8だったんだ』と思い出しました。それと同時に『それじゃ、メダルなんて取れなくて当然だな。もっと前からメダルを目標にしておくべきだった』と。きっと、現実的な目標を立てた時点で、メダル争いから外れていたのだと思います」
 勝負は、試合当日からではなく、その前から既にスタートしている。いかに本番に向けての「心構え」と「準備」が重要であるかということを、上山選手は初めてのパラリンピックで痛感していた。


すべては世界と戦うために。転職の決意
「勝ちたい」。そう強く思ったのは、2013年、初めて出場した世界選手権でのことだった。当時、上山選手はすでに国内ではトップ選手となっていた。ところが、その実力は世界ではまるで通用しなかった。上山選手は1回戦でストレート負け。何もできなかった自分が、あまりにも情けなかった。

「これほどまでに高いのか……」
 上山選手にとって初めて知った「世界」だった。

「このままでは、世界で勝つことはできない」。そう思った上山選手は、帰国後、早速動いた。何よりも、練習時間を増やすことが先決だと考え、JOC(日本オリンピック委員会)が行っている就職支援事業「アスナビ」に応募し、転職活動を行った。そこで出会ったのが、現在の所属先である三菱電機だ。同社は、パラリンピックを目指す上山選手を全面的にバックアップし、十分な練習環境を用意してくれた。そのため、以前は週末のみだった練習が、今では平日の中で週に3回練習することができている。
「以前は、残業することもあって、平日に練習することができませんでした。だから土日しか練習することができないとなると、休養することができなかったんです。さらに、合宿や海外遠征の時には、別の土日に出勤する代わりに、休ませてもらっていました。そうすると、さらに体を休めることはできず、試合の時はいつも疲労感でいっぱいの状態でした。でも、今は違います。平日に練習することができるので、しっかりと休養日を設けて、体調を整えることができる。これほどありがたいことはありません」

 転職したことによって、かわったのは練習環境だけではない。上山選手自身の意識にも変化があった。
「例えば、以前は負けても環境のせいにすることはできたと思うんです。でも、これだけしっかりとした環境を与えていただいている今、言い訳することはできません。負けたらそれはもう自分の責任以外なにものでもない。そういう意味では、競技者としての意識は高くなったと思います」

3年後、目指すは満点での金メダル
 上山選手にとって転機となった2013年の世界選手権。その初戦で敗れた相手と、実はリオで対戦している。準々決勝のゴラムレザ・ラヒーミー(イラン)だ。予選は上山選手が4位、ラヒーミーが5位と、まさに互角の様相を呈していた。お互いに1、2回戦を快勝し、準々決勝で対戦することとなった。

 アーチェリーの決勝トーナメントでは、1人1セット3射(30点満点)ずつ行い、合計点数が多い方に2ポイント(負けた方は0)、引き分けの場合は両者に1ポイントずつが与えられる。最大5セットまで行われ、先に6ポイント以上獲得した方が勝者となる。

 試合は、3セット目を終えた時点で1-5。上山選手は、4ポイントのビハインドを背負い、苦しい展開となった。次のセットで勝って2ポイントを獲得しなければ敗退が決まるという瀬戸際の中、ラヒーミーが放った矢は、「10点満点」を示す中央の黒丸付近に突き刺さった。少しでも矢が黒丸に触れていれば、10点が入ったラヒーミーが2ポイントを獲得し、その時点で試合は終了する。しかし、モニターで確認しても、どちらとも言えない微妙な位置にあり、判定が下るのに時間を要した。その間、上山選手は試合が続くことを信じ、次のセットの準備を黙々としていた。

 しばらくすると、どっとスタンドが湧いた。イラン側に目をやると、そこには頭上に両手で大きく丸のサインをして喜ぶコーチの姿があった。それは、上山選手の敗戦を意味していた。しばらくの間、上山選手は何も考えることができなかった。

「明確な負けなら、仕方ないと思えますが、微妙な判定での負けは、どこか納得がいかなくて、なかなか気持ちの整理がつきませんでした」

 その後、ラヒーミーは準決勝、決勝と勝ち続け、金メダルを獲得。ほんのわずかな差が2人の明暗を分け、ラヒーミーが世界一の称号を得たのに対し、上山選手は7位入賞に終わった。

「メダリスト」と「入賞者」との差を目の当たりにしたのは、帰国した時だった。空港の到着口のドアが開くと、そこにはいつもと変わらない光景があり、誰かの帰国を待つ人たちが数人いるだけだった。そして、上山選手たちアーチェリーの選手団を見ると「あれは誰?」というそっけない視線が注がれた。そのシーンは、未だに忘れることはできない。

 一方、ほかのロビーでは陸上競技のメダリストたちが報道陣に囲まれていたという。

「メダルを取る、取らないで、こんなにも世間からの注目度が違うのかと思いました。アーチェリーというマイナーな競技を知ってもらうためにも、4年後は自分がメダリストになるんだと、固く心に決めたんです」
 だから今、上山選手は「金メダル」を公言している。

 3年後、決勝の舞台で「満点での金メダル」――そんな自分を常にイメージしながら、上山選手は、日々トレーニングに励んでいる。


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上山 友裕(うえやま ともひろ)

パラアーチェリー・リカーブW2/三菱電機所属
1987年8月28日、大阪府生まれ。両下肢機能障害。
アーチェリーは、同志社大学入学後、友人の誘いで始める。
当初は立った状態でできたため、健常者の中で競技をしていたが
脚の症状の悪化に伴い、立って歩くことが困難となる。
そんな中、日本身体障害者アーチェリー連盟の誘いでパラリンピックを目指すことに。
2013年には初めて世界選手権に出場。
2016年6月、リオデジャネイロパラリンピック
世界最終選考会で3位となり、出場権を獲得した。
9月、リオでは予選を4位で通過し、準々決勝に進出、7位入賞を果たす。
全国身体障害者アーチェリー選手権大会では、2015、2016年に連覇している。
 
取材・撮影:越智 貴雄  取材・文:斎藤 寿子