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ATHLETES' CORE

射撃


「動」ではなく「静」のスポーツ、射撃。望月貴裕選手が、高校の時に「ゲーム感覚」で始めたのが、それだった。実際にやってみると立ち続けながら変わらない姿勢を保つというのは、見た目以上に体力を要し、当初は「本当にやっていけるのだろうか」と不安を覚えたという。しかし、2カ月を過ぎた頃には、少しずつコツを覚え、的中率が上がっていくことで、楽しさが増していった。そうして続けてきた射撃に、今ではすっかり魅了されている。29歳と若く、高校時代からと競技歴もある望月選手。日本パラ射撃界にとって、今最も成長著しい期待のアスリートに迫る。
競技人生の第一歩となった「不思議な感覚」
 射撃という競技は、やればやるほど、奥深さを知るという。それが、望月選手を魅了してやまない理由のひとつだ。

 例えば、トリガーを引く動作一つとっても、そこには実に繊細で緻密な技術が詰め込まれている。望月選手いわく、トリガーは人差し指だけで一瞬のうちに「引く」のではない。手のひら全体を時間をかけて「絞る」のだという。

「人差し指だけで引こうとすると、逆に中指や他の指が余計な動きをしてしまって、それだけでずれてしまうんです。そうではなくて、少しずつ絞っていく感じ。世界トップレベルの選手となると、絞る動作が本当にゆっくりで、いつトリガーを引いているのかわからないうちに撃っている。それくらい余計な動きは一切していません」

 こうした緻密で奥深い競技に、はじめは「ゲーム感覚」で始めた望月選手も、やがて本気で取り組むようになっていった。

 そんな中、望月選手が競技者として、自らの可能性を初めて感じたのは、2009年、大学4年の時に出場した「新潟国体」だった。それまでほど遠い夢のように思えていた「8位入賞」に初めて手の届く感覚を覚えたのだ。結果的には、それはかなわなかったが、途中までは「これはいけるかもしれない」と手応えを感じていた。

「撃った瞬間の感覚よりも、良い点数だったことが何度もあって、いい意味ですごく不思議な感じでした」
 何かを変えたわけではなかった。それでも何かが、それまでとは違っていた。望月選手は、頭ではなく、身体で射撃というスポーツを理解し始めていたのだ。

 パラリンピックを意識し始めたのは、それから3年後の2013年のことだ。望月選手は、「左下腿二分の一以上欠損」という障がいがあり、「障害者手帳」を持っている。もちろん、パラリンピックという存在は、以前から知っていた。しかし、彼は興味を示さなかった。クラス分けのために英文による診断書などの手続きに面倒くささを感じていたからだという。しかし、裏を返せば、世界の舞台を目指すほどの実力があるという期待が、自分で自分に持てずにいたからだった。

 しかし、2009年の新潟国体を境に、望月選手は自分でも気づかないうちに、少しずつ可能性を感じ始めていたのだろう。2012年の岐阜国体で「日本障害者スポーツ射撃連盟」の関係者から「パラリンピックを目指してみないか」という誘いを受けた際、彼は「せっかく声をかけていただいたのだから」と、素直に応じている。この時、もし自分に可能性を感じていなければ、手続きの面倒くささの方が勝り、誘いを断っていたことは十分に考えられる。

「自分の実力を試してみたい」。そんな「チャレンジ精神」が、いつの間にか芽生え始めていた。


甘くはなかったパラの世界
しかし、「勝負師」としての芽生えは、望月選手にはまだなかった。今思えば、その時は、本気でパラリンピックを目指しているとは言えなかった。

 転機のひとつとなったのは、翌2013年のことだ。8月、望月選手は、初めての国際大会としてタイ・バンコクで行われたワールドカップに出場した。それまで一度も海外に行った経験がなかった彼にとって、まだそれは「勝負」というよりも、どちらかというと「楽しみ」の方が勝っていたという。

「自分にとって、いい経験になるかなぁ、くらいの感覚でした。それと、過去の成績を見てみたら、もしかしたら入賞を狙えるかもしれない、と思ったんです」

 立射(立った状態で射撃を行う)である彼は、健常者と一緒にやっていた時と、何ら変わることはなく、それまで培った技術をそのまま活かすことができた。そのため、パラの世界に移ったとはいえ、望月選手には不安はなかった。

 ところが、実際はというと、入賞にはまったく届かなかった。望月選手自身が、実力を出し切れなかったわけではない。パラリンピックという世界最高峰の舞台を目指す選手たちばかりが集うステージでは、レベルアップのスピードは速く、数年前どころか、1年前の成績さえも参考にはならなかったのだ。

 パラリンピックを目指す選手たちの「本気度」、そしてパラリンピックを目指すことの「厳しさ」を、望月選手は肌で感じていた。

「パラの世界は思っていた以上にレベルが高いものでした。日本国内での大会、例えば健常者と一緒に行う全日本選手権や国体で入賞するラインに入らなければ、そのレベルには到達することはできないんだな、とわかったんです」

 奇しくも、その1カ月後の9月、2020年東京オリンピック・パラリンピックの開催が決定した。その知らせに、望月選手はパラリンピックへの思いをさらに強くしていった。


無意識のプレッシャーが遅いかかかったリオ予選の最終戦
 昨年のリオデジャネイロパラリンピックには、望月選手は出場することができなかった。それは、彼にとって大きな反省と教訓を得た経験となった。

「リオは、東京の前に出られればいいな、とは思っていました。でも、そんな気持ちで出られるほどパラリンピックは甘くはありませんよね。『絶対に出るんだ』という強い気持ちが、あの時はまったく足りなかったなと思います」

 実際、射撃でリオに出場した日本人は、女子の瀬賀亜希子選手ただ一人。世界のレベルは、ますます高くなってきており、出場するのは容易ではない。もともとアジアの中では中国や韓国が強く、世界トップレベルを誇る。そこに、最近ではタイなどが急激にレベルが上げてきており、競争が激化しているのだ。その競争に勝っていくには、さらなる高い技術と精神力が必要とされることは間違いない。

 リオの出場権がかかった最終戦、2015年11月に行われたアメリカでのワールドカップでは、望月選手のスコアはまったく伸びなかった。冷静さが武器のひとつである彼は、自分では「いつもと変わらず、これが最後のチャンスだという気負いもなかった」という。ところが、気付かないうちにプレッシャーが襲い掛かっていたのだろう。落ち着いているはずなのに、なぜかいつもとは違う動きをしていたのだ。

「ふだんは、銃を構えて、視点が的に定まってから、トリガーに手をかけて絞り始めるんです。ところが、その時はなぜか、まだ的に入っていない段階で、もうトリガーに手をかけ始めていて、あらぬところで撃ってしまうことが何度かありました。5点なんていう、あり得ないスコアを出してしまって、まったく勝負になっていませんでした」

 いつもとはまったく違う動きをしていたことに初めて気づいたのは、すべてが終わった後のことだった。

 パラリンピックの出場をかけての戦いは、それが望月選手にとっては初めてのこと。動じていないはずの自分の気持ちさえも変化させてしまうほどのものだということを、望月選手は知ることができた。それこそが、東京に向けた糧となるに違いない。

 それでも、今はまだ自分には甘さが残っていると、望月選手は感じている。
「僕はまだ『パラリンピックに出られたらいいな』というレベルなのだと思います。『絶対に出るんだ』というレベルにまで達していない」

 しかし、そんなふうに自分に厳しい視線を送ることができるのもまた、悔しい経験をしたからだ。そして、その厳しさこそが、望月選手を高めていくに違いない。


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望月 貴裕(もちづき たかひろ)

パラ射撃・SH1/中部電力所属
1987年6月18日、三重県生まれ。
左下腿二分の一以上欠損。
高校から射撃を始め、大学からは国体に出場する。
2010年中部電力に入社後も射撃を続け、
2012年に日本障害者スポーツ射撃連盟からの誘いによって、
パラリンピックを目指し始める。日本パラ射撃界において、
将来有望選手として期待されている。
 
 
取材・撮影:越智 貴雄  取材・文:斎藤 寿子