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ATHLETES' CORE

陸上(やり投げ)


高校卒業と同時に、「白球」を「やり」に持ち替え、自らの活躍の場を「グラウンド」から「フィールド」へと移した高橋峻也選手。本格的に陸上を始めて、1年が過ぎた。「昨年は、いろいろありすぎて、あっという間でした」と高橋選手。世界との距離はまだまだだが、それでも今、自らが世界を目指す「アスリート」へとなりつつあることを感じている。
転機は「目標」に飢えていた高3の秋
小学2年から野球を始め、つい2年前まで「野球一筋」の人生を歩んできた高橋選手。常に頭にあったのは「甲子園出場」。11年間、ただひたすらその舞台を目指して、白球を追い続けてきた。

そうして高校3年の夏、彼は甲子園に出場した。試合には出ることはなかったが、ベンチメンバーに入り、背番号10を付けて甲子園の土を踏んだあの瞬間、高橋選手の夢が叶った。

チームは初戦敗退。それでも試合終了の合図が甲子園に鳴り響いた時、高橋選手にあったのは達成感だった。
「やり切った……」
そう思えたことは幸せだったが、翌日から彼の心にはぽっかりと穴が開いた。高校卒業後の将来を思い描けずにいたのだ。

「ずっと野球に熱中してきて、それ以外のことは考えていませんでした。大学で野球をやるつもりはなかったですし、自分はこの先、何をしたらいいのか、まったくわからなかったんです」

そんなある日のことだった。「どこか専門学校にでも行って就職するのかな」。そんなふうに漠然と考えていた高3の秋、高橋選手の元に1本の電話があった。「島根県障害者スポーツ協会」からだった。聞けば「ぜひ陸上でパラリンピックを目指してみないか」と高橋選手をスカウトしたいと考えている人物がいるのだという。日本福祉大学陸上部の三井利仁監督(日本パラ陸上競技連盟理事長)だった。それは、高橋選手にとって「渡りに船」。「よろしくお願いします」と返答するのに、時間も、そして何の迷いもなかった。

「『パラリンピック』の存在自体は知っていましたが、実際に見たことも、興味もありませんでした。それに、陸上は体育でやっていたくらいで、一度も本格的にやったことはなかった。でも、電話をいただいてすぐに挑戦してみたいと思いました。何の目標もなかった自分に、また目指すものができる、それが何より嬉しかったんです」

「甲子園」から「パラリンピック」へ。2017年3月、高橋選手の「陸上人生」がスタートした。


世界との距離を痛感させられたアジアユース
とはいえ、「野球」から「陸上」への転向は、想像以上の困難が待ち受けていた。

まずは高橋選手にはどの種目が適しているのか、三井監督の元、大学で身体能力検査が行われた。その結果、高橋選手にすすめられたのは「短距離走」と「やり投げ」だった。そこで彼が選んだのが「やり投げ」。理由は「野球部だった自分にも、できるかもしれないと思ったから」だ。

野球部時代は外野手だった高橋選手。確かに、一見、やり投げと通ずるものがあるようにも思える。だが、実際は同じ「投げる」でも「似て非なるもの」だった。高橋選手によれば「肘」が軸になる外野手の投げ方とは異なり、やり投げでは「肩甲骨」つまり肩から背中にかけての部分を軸にして投げる。どちらかというとバレーボールやバドミントンに似た腕の振りをするのだという。そのため、野球での投げ方が染みついている高橋選手にとっては、大変なものだった。11年間での「クセ」は、わずか1年では抜けきらず、まだ道半ばだ。

個人練習では、トレーニング用のタイヤの上にiPadを設置し、自らの投げる姿を撮影してはフォームをチェックし、修正する。それを黙々と繰り返し行う。地道な作業だが、こうした一つ一つの積み重ねは、しっかりと安定したフォームを作り上げていくには欠かすことができない。

そんな中、昨年1年間で、高橋選手は約15mも記録を伸ばしている。本格的に練習を始めて2カ月後に出場した5月の「東海学生陸上競技対抗選手権大会」では約31mだった自己記録は、その後更新を重ね、半年後、9月の「ジャパンパラ競技大会」では45m79にまで至った。素質の高さは十分に証明されたと言ってもいい。高橋選手自身も伸びしろを感じている。

一方で、彼が目指す「パラリンピック」への道のりは、まだまだ遠いことも事実だろう。それを痛感したのが、2017年12月のことだ。UAE・ドバイで行われた「アジアユースパラ競技大会」。彼にとって、人生初の「国際大会」だった。

それまで順調に記録を伸ばしてきた高橋選手だったが、ドバイでは42m97と、公式の大会では初めて自己記録更新とはならず、自らの力を出し切れずに終わった。その理由を彼はこう分析している。

「シーズンオフにあたる寒い12月という季節柄、国内で十分な練習ができず、また生まれて初めての海外で時差ボケの影響もあって、現地でもうまく調整することができませんでした。でも、それだけではなくて、やっぱり初めての世界の舞台ということで動揺があったのだと思います」

国内では当然、周りは全員日本人の中で戦ってきた高橋選手。ドバイで初めて目にした海外の選手は大柄な選手が多く、体格の違いだけをとっても強そうな選手ばかりだったという。
「体の大きさも、やり投げにとって最も重要な助走のスピードも、自分とはまったく違いました」

実際の記録もまた、レベルが違った。当時の自己ベストが45m79の高橋選手に対して、同大会で優勝したインドの選手の記録は55m台。ユースでも、少なくとも50m台にのせなければ勝負にならないことをまざまざと見せつけられたのだ。そんな中で高橋選手は、目指している場所と、現地点との距離がいかに遠いかを実感していた。

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さらなる成長を目指した新たな挑戦
だが、決して落胆はしていない。陸上に転向して1年あまり。すべてはこれから次第だと考えている。

2020年東京パラリンピックの出場を目指している高橋選手にとって、2018年はある意味「ラストチャンス」ととらえている。

「パラリンピック1年前の2019年からは、それこそ記録を出して、標準記録を突破していくことが必要となります。そのためにも、さらなる成長が必要で、新しいことにチャレンジできるのは今年までと考えています」

その「新しいチャレンジ」の一つとして、取り組み始めたのが「短距離走」だ。やり投げでまず最初に重要なのが、「助走スピード」。これなくして最後のやりを放つ瞬間の爆発力は生まれないからだ。そこで短距離走の練習や実際のレースに出ることで、スプリント力を高め、助走スピードを上げようと考えている。

「実は昨年から三井監督からも短距離にも出てみたらどうだ、という助言をいただいていたんです。でも、陸上を始めて間もない僕にとって、やり投げと短距離の両方を練習するのは簡単なことではなく、まずはやり投げをということでやってきました。でも、ドバイでの経験もあって、大変というだけでやらないというのは違うなと。それで、今年からは短距離にも力を入れることに決めました」

その第一歩として今年最初の国際大会として出場した5月の「北京グランプリ」では、初めてやり投げとともに100mにもエントリーした。100mの方は13秒台と振るわなかったが、やり投げではフォームが崩れたにもかかわらず、3投目で48m51の自己新記録を樹立した。これには、大きな自信を得たという。

「フォームがバラバラでも、自己新を出すことができた。これは、ひとえに短距離を含めた練習の成果だと思います。これから、もっと練習を積み重ねて、助走スピードを上げ、フォームもしっかりと作り上げていくことができれば、記録は伸びていくはずです」

今シーズン中に51mまで自己ベストを更新し、日本パラ陸上の強化指定選手に入ることが目標だ。その先に「世界最高峰の舞台」への挑戦が待ち受けている。

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高橋峻也(たかはし しゅんや)
 
陸上競技F46クラス/日本福祉大学陸上競技部所属
1998年7月2日、鳥取県生まれ。3歳の時に患った脊髄炎の影響で右腕に障がいを負う。
父親の誘いで小学2年の時に野球を始め、
左手のグラブを瞬時に外し、左手で送球するという「グラブスイッチ」の技を習得。
県立境高校3年夏に甲子園に出場し、右翼手としてベンチ入りを果たした。
同年秋に日本福祉大学陸上部監督からスカウトされ、陸上に転向。
現在、やり投げ選手としてパラリンピックを目指している。
 
取材・撮影:越智 貴雄  取材・文:斎藤 寿子