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ATHLETES' CORE

ウィルチェアーラグビー


2018年8月10日、ウィルチェアーラグビーの歴史に新たな1ページが刻まれた。パラリンピックと同じく「4年に一度の世界一決定戦」である世界選手権で、日本が世界ランキング1位、しかも地元開催のオーストラリアを撃破し、世界の頂点に上り詰めたのだ。その歓喜の輪の中央に、「彼」はいた。チームの大黒柱、池透暢選手だ。2016年リオデジャネイロパラリンピックでは史上初の銅メダルを獲得し、今回の世界選手権では優勝と、今、勢いに乗っているウィルチェアーラグビー日本代表。そのキャプテンであり、エースである池選手の「思い」に迫る。
“ジャイアントキリング”を起こしたチームの成長
ウィルチェアーラグビー界にとって、それはまさに「世界を震撼させた」勝利だった――。

8月5日~10日の6日間にわたってオーストラリアで行われた世界選手権。優勝候補の筆頭は、現在世界ランキング1位であり、地元開催となったオーストラリアだった。その強豪に対し、日本はグループリーグでは52-65で敗れていた。交互に点を取り合うことが多く他競技以上に「1点の重み」があるウィルチェアーラグビーにおいて、13点差は「完敗」以外のなにものでもなかった。

実は日本は2カ月前のカナダカップではオーストラリアに勝利を収めていた。だからこそ、自信を持って臨んだ試合だった。ところが、世界選手権でのオーストラリアはカナダカップとはまるで違っていた。いつもはあるはずの“穴”が全くなかったのだ。

「例えば、オーストラリアはローポインターがボールを入れる際、パスの距離が短いので、動けるハイポインターが近くに寄って来るんですね。だから狭いスペースでのプレーになるので、僕たちにとってはハーフコートラインを越えなければいけない12秒間のうちにターンオーバーが取りやすいんです。ところが、世界選手権ではうまくボールを(バレーボールのアンダーサーブのように)ヒッティングして、距離を詰めてきた日本の後ろのスペースを使ってきたんです」

日本がやりたかった戦略の“裏”をつくオーストラリアの完璧な“日本対策”に、為す術がなかった。

「予選ということもあって、若手に経験を積ませることも重視した中での13点差ということもありましたが、それでもやはり2ケタ差というのはここ5、6年では一度もなかったほどの大差でした」

ところが、結局グループリーグ2位通過した日本は、準決勝でアメリカを破り、そして決勝では再戦となったオーストラリアに62-61で競り勝った。果たして、勝因は何だったのか。

「戦略的には、それまでは4人の形(ゾーンディフェンス)に対してのことだったのが、準決勝以降は誰が、相手のどの選手につくのか、マッチアップをしっかりと決めたことと、ディフェンスのラインを少し下げるなど、より精度の高いディフェンスを心がけました。でも、一番大きかったのは勝敗に関係なく、100%の力を出し切れるようなチームに成長していたこと。ヘッドコーチ(HC)の言うことを信じて、そしてチームメイトを信じて、最後まで集中してプレーし続ける。それがこれまでは途切れる瞬間があって、70~80%の力しか出せなかったのが、世界選手権では100%の力を出せるようになっていた。それが最大の勝因だったと思います」

チームの団結力が、日本に大きな力をもたらしたのだ。


ラガーマンとして生きる覚悟
今や日本のウィルチェアーラグビー界にとって不可欠な存在の池選手。彼がウィルチェアーラグビーを始めたのは、2012年のことだった。それまでも何度もスカウトされていたが、池選手の気持ちはずっと違う競技に向いていた。車いすバスケットボールだ。もともと中学時代にバスケットボール部だったこともあり、ケガをして最初に始めたのは車いすバスケだった。
当時、池選手はバスケ部員だった自分が、車いすバスケで活躍する姿を見せることこそが、周囲への恩返しになると考えていた。しかし、自由が利かない左手ではボールコントロールや車いす操作は容易ではなかった。当初、地元の車いすバスケ関係者からも「車いすバスケは難しいと思う」と言われていたという。それでも努力を重ね、地元のクラブチームのレギュラーを獲得し、四国選抜に選ばれるようになり、そしてついに2011年には日本代表候補の合宿にも呼ばれるほどになった。
だが、池選手の心の内には、常に葛藤があった。どうしても手に麻痺を抱える自分には越えられない境地があり、限界を感じていたのだ。

「でも、最初それは逃げでしかないと思っていました。バスケでというのが友人との約束でもあったし、何よりも自分はバスケが好きで、もともとバスケ部だったというプライドもあった。だからバスケに執着しているところがあったんです」

そんな池選手の気持ちに変化をもたらせたのは、2012年ロンドンパラリンピックだった。

「寝る前にテレビをつけたら、偶然、ロンドンパラのウィルチェアーラグビーの試合をやっていたんです、日本とアメリカとの3位決定戦でした。最初はただぼーっと見ていただけだったのですが、そのうちに『この競技でなら、自分がこれまで積み上げてきたことを生かして、こういうプレーや役割ができるんじゃないかな』と思い始めて……。その場でウィルチェアーラグビーへの転向を決意したんです」
池選手の目には、ウィルチェアーラグビーのコート上で“輝いている自分”がはっきりと見えていたのだ。

ロンドンパラリンピック後、池選手はすぐにウィルチェアーラグビーの地元クラブで練習をするようになった。そして翌年1月には日本代表候補の強化合宿に招集された。しかし、実は車いすバスケを完全に吹っ切れていたわけではなかった。そのため、初めての海外遠征には、バスケットボールを荷物に忍ばせていた。

「その時はまだ完全に転向したわけではなく、バスケの方の合宿にも呼ばれていたんです。それでラグビーの海外遠征後、すぐにバスケの合宿が控えていたので、感覚を忘れないようにと思ってボールを持って行きました。ラグビーのメンバーにしてみたら、それはあまりにも失礼だと思って、ホテルの部屋の中だけで触るようにしていたので、知っていたのはルームメイトだった池崎(大輔)さんだけでした」

結局、完全に車いすバスケへの未練を断ち切るには、1年ほどの時間を要した。そのため、当初は車いすバスケの時に感じていた楽しさを、ウィルチェアーラグビーでは感じることができなかったという。ただただ「支えてくれた人たちへの恩返し」として、パラリンピックでメダルを取るためだけに打ちこんでいたのだ。
ようやくウィルチェアーラグビーに楽しさを覚えるようになったのは、転向して2年ほど経ってからのことだった。
「実はローポインターの選手との細かい連携によって得点シーンが生まれたり、そんなラグビーの奥深さを知るようになりました。海外勢相手に勝つ難しさも感じたりして、高いレベルを追求していくことに面白さを感じられるようになったんです」

バスケの道を諦め、ラガーマンとして生きる覚悟をした池選手。心の葛藤に苦しんだ日々もまた、彼の強さとなっているに違いない。

2020に向けて走り続ける理由
「もう、これで十分かな……」
2016年リオデジャネイロパラリンピックで、史上初のメダル(銅)を獲得したウィルチェアーラグビー日本代表。キャプテンとして、エースの一人としてチームを牽引した池は、ひとり達成感を味わっていた。

「僕が頑張ってこられたのは、19歳の時に大事故に遭って、その時に亡くなった友人のために何かを残したいと思ったことがスタートでした。それがパラリンピックで銅メダルという結果を残すことができた。表彰式で首にかけてもらったメダルを天国の友人と、日本で応援してくれている友人に向けて掲げた時、『もうこれで終わってもいいかな』という気持ちが沸きあがってきたんです」

もちろん、アスリートとしては、あと一歩のところで金メダルを取ることができなかったという悔しさはあった。だが、もう一度4年後を目指して走るには、その悔しさだけでは十分とは言えなかった。何かが足りないような気がしていた。

2020年東京パラリンピックを目指し、現役を続けることを決めたのは、リオから帰国して数カ月後のことだった。彼の背中を押したのは、ラグビーに対する「思い」だった。

「ウィルチェアーラグビーは、ようやく見つけた“自分が輝ける場所”。その場所にいる自分が今、果たす役割はもっとたくさんあるなと。ウィルチェアーラグビーという可能性を秘めたスポーツを通して、もっとたくさんの人にいろいろと伝えられることがあるんじゃないかなと思ったんです。それがこの世界に足を踏み入れた自分がすべきことなのかもしれないと思った時、『よし、4年後に向けて走り続けよう』とスタートを切ることができました」

リオ後、チームは新しいHCが就任し、再スタートを切った。それからわずか2年後の今年の世界選手権で、「世界一」へと上り詰めた。しかし、そこに「満足感」はなかったという。

「優勝したことは嬉しかったけれど、完璧な勝利ではなかったと思います。逆にこれからもっと強くなる、その可能性を感じることのできた優勝だったなと」

表彰式で金メダルをかけてもらった時には、すでに反省モードに入っていたという池選手。そんな“止まない向上心”こそが、彼の成長を後押ししているに違いない。

池 透暢(いけ ゆきのぶ)
 
ウィルチェアーラグビー・3.0クラス/日興アセットマネジメント、Freedom所属
1980年7月21日、高知県生まれ。
19歳の時に交通事故に遭い、全身に大やけどを負う。
一命はとり止めたが、左足を切断し、左手は感覚を失う。右足も曲げることができなくなる。
交通事故で亡くした友人を思い、「生かされた証」を残そうと、
中学時代にバスケットボール部員だったこともあり、車いすバスケを始める。
2011年には日本代表候補の合宿に招致されるも落選。
2012年ロンドンパラリンピックの試合をテレビで観たのを機に、
ウィルチェアーラグビーへの転向を決意。
2013年1月から日本代表の合宿に呼ばれ、主力として活躍するようになる。
翌14年からは日本代表のキャプテンを務め、
16年リオデジャネイロパラリンピックで史上初の銅メダルを獲得。
2018年8月の世界選手権では初優勝を達成した。
2020年東京パラリンピックでの金メダル獲得に大きな期待が寄せられている代表チームの大黒柱。
今年11月から米アラバマ州バーミンガムのクラブチームに所属し、
2019年3月まで米国リーグでプレーする。
 
 
取材・撮影:越智 貴雄  取材・文:斎藤 寿子