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ATHLETES' CORE

車いすバスケットボール


今年9月に開催されるリオデジャネイロパラリンピック。12人の代表メンバーに入った暁には、そこを日本代表としての“集大成の地”と考えているバスケットボールプレーヤーがいる。藤井新悟選手、38歳だ。彼には「今度こそ」という人知れず強い思いがある。それはアテネ、北京、ロンドンと過去3度出場したパラリンピックでは掴むことができなかったものがあるからだ――。
限界から一転、開かれた新境地
「もう、代表としてはいいかな……」
 2012年、ロンドンパラリンピックを終えた藤井選手は、代表生活に終止符を打とうと考えていた。初めて出場した2004年アテネ大会では、スタメン出場はしたものの、何が何だかわからないうちにあっという間に終わり、何もできなかった自分を情けなく感じた。4年後の2008年北京大会ではキャプテンということもあり、「やってやるぞ」と意気込んで行ったものの、自分の力不足を痛感し、ひどく落胆した。そして3度目のロンドンは――。

「個人的には、最も力を出すことのできた大会でした。実際、僕自身の成績はアテネ、北京と比べて一番良かったんです。でも、チームは決勝トーナメントにも行けず、アテネ、北京を下回る9位。『あぁ、代表としてはここらが潮時かな』と思いました」

 やるべきことはすべてやった。それで結果が出なかったのだから、仕方がない――今以上の伸びしろを感じることができなかった藤井選手は「これが自分の限界」だと考えた。そして「やり切った」と自分で自分を納得させようとしていた。しかし、それが真の達成感ではないことは、本人が一番よくわかっていたに違いない。

 そんな彼が、再び「日本代表として世界に挑みたい」と思うようになったのは、ある人物からの指導がきっかけだった。2013年に男子日本代表チームの指揮官に就任した及川晋平ヘッドコーチ(HC)だ。

「及川HCの指導がすごく新鮮に感じられたんです。及川HCは、単に『ああしろ、こうしろ』ではなく、一つ一つのプレーに対して、なぜそうすることが必要なのか、という根拠を、しっかりと専門的に教えてくれる。だからこそ、自分がやってきたことは間違いではなかったということもわかりましたし、『もっと知識を増やせば、さらにプレーの質が上がるに違いない。自分にも、まだ成長できる点はあるな』と思えたんです」

 元来、藤井選手はマネジメント力に長けたプレーヤーだ。彼以上の「把握力」と「判断力」を持つ選手は、今の日本車いすバスケ界には皆無と言ってもいいだろう。そのもともとある「才能」に、「知識」を加えることによって、彼は新境地を切り開いたのだ。

 今、藤井選手の「知りたい」という情熱は、留まるところを知らない。及川HCはこう語る。
「一番私と会話が多いのは、藤井なんです。彼は誰よりも質問してくる。ガードというポジションだからというのもありますが、何が良くて、何がダメなのか、どうしたらいいのかを知ろうという気持ちが強い。HCと選手というよりも、今ではチームを成長させるためのパートナー的存在です」

「こんなのバスケじゃない」の裏側にあったプライド
日本代表の指揮官にそう言わしめる藤井選手。しかし彼は最初、車いすバスケを「バスケ」と認めようとはしなかったという。その理由は、バスケットマンとしてのプライドにあった。

「へぇ、そんなものがあるのか」
 藤井選手が初めて車いすバスケの存在を知ったのは、19歳の時だった。地元秋田県の企業に就職してもうすぐ1年が経とうとしていた頃、スキー事故で脊髄を損傷した彼は、充実したリハビリ施設を求めて宮城県仙台市の病院に転院した。その時、今所属している宮城マックスの先輩から声をかけられたのだ。

 しばらくして宮城マックスの練習を見学に行った藤井選手は、一目見て、衝撃を受けた。
「すごい、のひと言でした。もうスピードとか、車椅子の動きじゃないと思いました」

 しかし「やりたい」とは思わなかった。
「聞けば、バスケ経験者はほとんどいなかったんです。こんなのバスケじゃない、と思いました」
 しかし、それは本心からではなかった。

 藤井選手は、中学、高校とバスケ部に所属し、主力として活躍。就職も「バスケ部がある企業」を選ぶほど、彼の人生には常にバスケの存在があった。そんな彼にとって、「またバスケができる」ことは、嬉しいことだったに違いない。だが、いざ車いすバスケを体験してみると、何もかもが思い通りにできなかった。車いす操作ひとつとっても自在に動かすことができない。そのうえ漕ぎながらドリブルをし、パスをし、そして一般のバスケと同じ高さのゴールにボールを入れることなど、とてもできなかった。

 そんな不甲斐ない自分が、情けなく、嫌だった。
「なんで今までバスケをしてきた自分が、経験者でもない、こんなおじさんにまで負けなくちゃいけないんだ。こんなのオレがやってきたバスケじゃない」

 それが、できない自分への言い訳であり、そこから逃げることで楽になろうとしていることに、藤井選手は気づいていた。しかし、それでもその時は、車いすバスケを否定することでしか、気持ちを整理することができなかったのだ。

それからしばらくして退院した彼は、一度地元へと帰った。しかし数カ月後、再び仙台へ戻ってきた。理由は2つ。「就職」と「車いすバスケ」だった。
「仕事をするために、職業能力開発センターに行こうと思ったんです。でも、それだけではなくて、せっかくこれまでバスケをやってきたんだから、やっぱりマックスで車いすバスケをやってみようかなと」
とはいえ、すぐに車いすバスケに夢中になったわけではなかった。脊髄を損傷し、障がいの重い藤井選手は、障がいの軽い選手と比べて、上達するには時間を要した。そのため、なかなか思うようにいかないことに嫌気がさし、練習をさぼっては遊びに出かけることもしばしばだった。


最高にバスケが楽しいと思える今
そんな彼が、本腰を入れるきっかけとなったのが、マックスに入って約1年後、初めて出場した日本選手権だった。
「そこで全国の選手を見た時に、『うわっ、こんなに上手い選手がいるのか』と驚きました。その時、『オレは一体何をしているんだろう。ちゃんと努力もせずに、ただできないことを車椅子バスケのせいにして……すっげぇ、カッコ悪いだけじゃん』と、自分を見つめ直したんです」

 その後、藤井選手の練習への姿勢はガラリと変わった。と同時に、みるみるうちに上達していった。その頃の彼の変化を、マックスの岩佐義明HCはこう語る。
「チームに入っていた当初から、彼にバスケセンスがあることはわかっていました。ただ、思うようにできない自分が歯がゆかったんでしょうね。1年目は、練習に来ない時期もありました。でも、2年目からは練習するようになって、そしたら案の定、どんどんうまくなっていったんです。チームにとって、彼が入ってきたことは本当に大きかったですよ」

 藤井選手にとっても、岩佐HCの存在は大きかったという。
「マックスに入って最初に驚いたのが、まるで部活ような雰囲気だったことです。クラブチームだから、好き勝手にやっているのかなと思っていたら、岩佐HCは違いました。容赦なく、ガンガン言ってくるんです。でも、そういう緊張感が懐かしくて、楽しかった。僕にとってはすごく居心地が良かったんです。だからこそ、続けられたのだと思います」
 車いすバスケを始めて18年。そこには、常に岩佐HCからの叱咤激励があった。

 38歳となった今、彼は「これまでで一番、バスケを楽しんでいる自分」を感じている。
「もちろん、身体的な面では『昔の方が動けていたな』と思いますし、周りから見れば、その時が一番輝いていた時だと映っているのかもしれません。でも、不思議と自分の中では、楽しさのピークは今が一番と思えるんです」

 20歳で車いすバスケを始め、22歳で日本代表入りし、それ以来ずっと日本のトップを歩き続けてきた藤井選手。酸いも甘いも経験してきた彼にとって、今、一番欲しいものとは――。過去3大会のパラリンピックで叶えることができなかった「達成感」だ。

「まずは選考で代表12名にしっかりと入ることが大前提ですが、今度のパラリンピックでは、『やり切った』という証が欲しい。それがどういう形かはわからないけれど、結果も含めて、すべてに対してやり切った思いで、代表としての終止符を打ちたいと思っています」

 日の丸のユニフォームを着て戦う最後の地と決めた、4度目のパラリンピック。その舞台に立つため、藤井選手は今、日々のトレーニングに励んでいる。


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藤井 新悟(ふじい しんご)

車いすバスケットボール・1.5クラス/
富士通コミュニケーションサービス株式会社勤務、宮城マックス所属
1978年1月2日、秋田県生まれ。中学、高校とバスケットボール部に所属。
高校卒業後、秋田電子に入社したが、スキー事故で脊髄を損傷し、車いす生活となる。
入院中に車椅子バスケットボールを知り、1999年に宮城マックスに入った。
2008年、日本選手権での初優勝に貢献し、自身もMVPに輝く。
以来、2015年まで日本選手権7連覇中(2011年は東日本大震災のため中止)。
2000年に日本代表デビューを果たし、2004年アテネパラリンピックに初出場。
2008年北京、2012年ロンドンではキャプテンとしてチームを牽引した。
2015年10月に行われたアジアオセアニアチャンピオンシップでは
リオデジャネイロパラリンピックの出場権獲得に貢献した。
 
取材・文 : 斎藤 寿子