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ATHLETES' CORE

クロスカントリー/バイアスロン


2014年3月に行われたソチパラリンピックに、18歳で出場した阿部友里香選手。当時は「出場できることが嬉しかったし、それだけでいっぱいいっぱい」で、メダルを獲得することなど、まったくイメージすることができなかったという。しかし今は違う。大学に進学し、20歳となった阿部選手が描く2年後の平昌パラリンピックとは――。2年前は遠かった「夢」が、少しずつ現実の「目標」となりつつある。
8位入賞の裏側にあった周囲の支え
夢にまで見た“世界最高峰の舞台”パラリンピック本番まで、いよいよあと1カ月に迫った2014年2月、阿部選手はイタリアでの最後の合宿に臨んでいた。すると合宿中、アクシデントが彼女を襲った。

 その日、阿部選手はクロスカントリースキー・15キロクラシカル(雪面に掘られた2本の溝の上を、スキーを平行に保ちながら左右交互にスキー板を動かして進む競技)の予行練習を行う予定でいた。ところが、左足のアキレス腱に激しい痛みが生じ、スキーどころか歩くことさえもできない事態に陥った。当然、その日の練習は中止となった。

 彼女によれば、実はバレーボール部に所属していた中学3年の時に一度、左足のアキレス腱が腫れたことがあったのだという。その時は治療院に通い、完治したと思っていたのだが、高校入学後に本格的にスキーを始め、2年の時に再びアキレス腱に痛みが生じ始めたのだ。それ以降は、良くなったり悪くなったりの繰り返し。だが、歩けないほどの激痛は、ソチ直前での合宿の時が初めてだった。

 結局、数日後には痛みはほぼ収まり、15キロクラシカルの予行練習は行われた。しかし、またいつあの激痛に襲われるかわからない。そんな不安の中、阿部選手は初めてのパラリンピックに臨むこととなった。

 現地入りしてからも、やはり痛みが完全に消えることはなかった。レース本番となれば、集中力の方が勝り、左足のアキレス腱のことは気にはならなかったという。しかし、レース後にはやはり痛みが襲った。そのため少しでも和らげようと、朝にはシャワーで患部を温め、レース前にはテーピングを施し、そしてレース後にはアイシングを欠かさなかった。

 こうして迎えた大会3日目、阿部選手は最大の難関、15キロクラシカルの日を迎えた。実はアキレス腱に痛みが生じるのは、フリー走行よりも、スキーを平行に保ちながら滑らなければならないクラシカル走法の方だった。さらに、15キロというロングラン。いくらレース中はアドレナリンが出て痛みが気にならなくなるとはいえ、やはり一抹の不安はあった。

「その日の朝、チームドクターが心配してわざわざ選手村まで見に来てくれたんです。そしたら、痛み止めの注射をするほど症状は悪くないということで、ほっとしました。直前合宿では予行練習もできていましたし、『よし、これで大丈夫』という気持ちでレースに臨みました。でも、やはりどこか不安はあったと思います」

 そんな阿部選手の不安をかき消してくれたのは、日本代表のスタッフたちだった。3キロ周回のコースには、数百メートル置きにスタッフが立っており、彼女を鼓舞してくれたのだ。
「もともとロングは得意ではなかったのですが、ちょっと気持ちが萎えそうになる度に、スタッフさんが声をかけてくれたんです。だから、苦しいとか痛いとかということをあまり考えずに走り切ることができました」

 結果は8位入賞。ゴールの瞬間、彼女はその場で倒れこんだ。周囲の支えによって不安に襲われることなく、持てる力をすべて出し切った。まさに「全力」のレースだった。


スキー部の雰囲気を変えた“諦めない姿”
そんな阿部選手の雄姿を感慨深そうに見つめていたのが、高校3年間、彼女を指導した盛岡南高校スキー部顧問の立花武良先生だ。
「入学当初は、右も左もわからない、それこそスキーの“ス”の字も知らないところからのスタートだったんですよ。その彼女が、この大舞台に立っているんだと思ったら、3年間のことがいろいろ頭に浮かんできたんです」

 阿部選手が進学した盛岡南は、東北を代表するスキーの強豪校で、OBにはソチ五輪スキーノルディック複合日本代表の永井秀昭選手がいる。当然、部員は中学校時代から全国大会に出場するような選手ばかりだ。そんな中、阿部選手は趣味でゲレンデスキーを楽しむ程度。高校入学の数カ月前に初めてクロスカントリースキーを体験したくらいで、まさに「右も左もわからない」という状態だった。

「彼女にとってはほとんど初めてのことばかりで、練習は相当きつかったと思います。正直最初の2、3カ月は、『もしかしたら夏までに辞めたいと言ってくるかもしれないなぁ』と思っていました」
 しかし、そんな立花先生の心配は杞憂に終わった。彼女には「上手くなりたい」「強くなりたい」という気持ちが、他の誰よりもあった。

「確かに、初めはできないことがたくさんありました。でも、彼女は絶対に諦めなかった。3年間、彼女の口から『できません』という言葉は一度も聞かなかったですね。それどころか、『こうした方がいいですか?』と積極的に訊いてきて、なんとかクリアしようとしていました」

 そんな阿部選手の姿は、他の部員たちにも影響を与えた。1年目の夏が過ぎ、冬に入る頃には、部の雰囲気はガラリと変わっていた、と立花先生は語る。

「スキーはあくまでも個人競技ですから、励まし合うような雰囲気というのは、なかなかできにくいんです。それまでは、私の方から生徒たちに半分働きかけていたところがありました。ところが、友里香があまりにも頑張っているので、他の子も彼女を応援したり支えようとし始めた。そういう中で、自然とお互いに声を掛け合うような雰囲気が作られていったんです。彼女の存在は本当に大きかったです」

 元来、おしゃべりが大好きで、明るい性格の阿部選手。彼女の周りには自然と人の輪ができる、と立花先生は語る。こうした人間性もまた、彼女の成長速度を加速させているに違いない。


「苦しさ」から「楽しさ」、そして「悔しさ」へ
 初めてパラリンピックに出場し、高校を卒業した2014年3月から2年が過ぎた今、阿部選手は滑ることが楽しいという。それは自分自身に変化を感じているからだ。

 2014年夏から、阿部選手はソチ五輪で日本代表のコーチを務めた長濱一年コーチに師事している。その長濱コーチの指導の下、オフシーズンに重点を置いて行ってきたのがローラースキーでの走り込みだった。最後の5分や10分、最も疲れている時にスピードを上げるというトレーニングを、夏場はほぼ毎日行ってきた。持久力のみならず、最後の競り合いでの強さが勝敗を分けることは少なくないからだ。

 そのトレーニングの効果は早速表れている。これまでは前半で飛ばし、後半になるとガクッとスピードが落ちることがしばしばだった。しかし、今は余力を残した状態で後半に入り、最後にスパートをかけるというレース展開ができるようになってきている。

 さらに昨年12月のフィンランドでの遠征では、スピードを殺さずに雪上を滑るコツをつかんだ。左腕に障害のある阿部選手は、右手だけでストックを操作して滑る。そのため、以前は自然と右側に体重が偏りがちだった。それを、左右同じように体重を乗せて滑ることができるようになったのだ。

「今まではスキー板を出した分だけの距離しか進んでいなかったのが、うまくスキーに乗れて、スキーを出した以上にスーッと進んでいく感覚があるんです」

 特に手応えを感じたのは、今年1月に行われた「クロスカントリーファーイーストカップ」だ。これは、五輪を目指すほどのレベルの高い選手が出場する一般のクロスカントリーの大会。阿部選手はこれまでも一般の大会に出場してきたが、トップとはいつも10分ほどの差が開いていた。ところが、今回のタイム差は、約2分半。自分でも驚くほどの進歩だった。

 こうした成長とともに、阿部選手にはある新たな感情が芽生え始めている。「悔しさ」だ。
「ソチの時までは、ゴールした後はもう苦しくて『今の自分にはこれ以上何もできない。精一杯やった』という気持ちだったんです。今もそういう達成感を味わいたくてやっているというところがあります。でも、最近はそれだけでなくて、悔しいと思うことの方が多くなってきました」

 ソチまでは、入賞ラインぎりぎりが精一杯だった阿部選手だが、最近では「4位」という結果が多くなってきた。今年2月のワールドカップ第2戦でも、クロスカントリー・15キロクラシカルでは、ゴール手前でひとりを交わして4位。だからこそ、悔しさが募る。

 今年1月のアジアカップでは、バイアスロン・ショートで銅メダルを獲得。次に狙うのは、世界での「表彰台」。そこに到達した時、さらにその先にパラリンピックでのメダルが見えてくるに違いない。来シーズンは、その「あともう一歩」に挑む。


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阿部 友里香(あべ ゆりか)

1995年10月7日、岩手県生まれ。
出生時に左腕に障害を負い、機能不全となる。
小学校ではバレーボールに熱中した。
2010年のバンクーバーパラリンピックをニュースで見て、初めて障がい者スポーツの存在を知る。
その時に目にしたノルディックスキー競技(クロスカントリー、バイアスロン)に興味を持つ。
翌年進学した盛岡南高校でスキー部に入り、本格的に競技を始めた。
同時に日立ソリューションズスキー部「AURORA」下部組織のジュニアスキークラブに入り、
日本代表の合宿にも参加。2014年3月、ソチパラリンピックに出場し、
クロスカントリー・クラシカル15キロで8位入賞。
2015年4月、大東文化大学に進学し、現在スキー部に所属している。
 
 
 
取材・文 : 斎藤 寿子