障がい者スポーツを応援する:SPORTRAIT

INSTAGRAM
FACEBOOK
twitter

障がい者スポーツを応援する:SPORTRAIT

INSTAGRAM
FACEBOOK
twitter
ATHLETES' CORE

陸上(車いすレース/トラック種目)


「パラリンピックにも、勝敗にも、特に強いこだわりはありません」
そんなふうにさらっと言ってのけるところが、この選手の魅力だ。
「もちろん、やるからには勝ちたいという気持ちは少なからずあります。でも、それが一番ではないんです。何をどうすれば、どこまで速くなれるのかを追求することが楽しい。僕にとってパラリンピックは、その力をすべて出し尽くす舞台。最高のパフォーマンスをすることが、最大の目標です」
無駄のない動きでトラックを駆け抜けるその姿と同じように、陸上に対する考え方にも、 “力み”はまったく感じられない。どこまでも自然体。それが樋口政幸選手だ。
ブレなかった大きな決断
「東京パラリンピックは、僕にとって“3度目のパラリンピック”。ほかのパラリンピックと何ら変わりはなく、東京だからという特別感は全くないんです」

 いつも物腰柔らかく、飄々とした表情で、淡々と語る樋口選手。周囲を気にすることなく、我が道をいくスタイルは、子どもの時から変わらないのだという。だからこそ、決断も早く、ブレもない。7年前に迎えた“転機”の時もそうだった。

 2012年9月に行われたロンドンパラリンピックは、樋口選手が初めて臨んだ世界最高峰の大会。そこで感じたのは、予想をはるかに上回る厚い世界の壁だった。

「それまでにも世界選手権など国際大会を経験していたので、海外選手の強さは十分にわかっていました。でも、それは“わかっていたつもり”でしかなかったんです。4年に一度の本番にしっかりとピーキングしてきた彼らは、それまでとはまるで違いました。パラリンピックで初めて世界の本当の強さを体感したんです」

スタートから一人出遅れ、必死に追いかけることしかできなかった800mは準決勝敗退。それまでのレースではしっかりと海外勢とも勝負できていたはずのマラソンも13位。ロンドンは、世界にまったく歯が立たなかったという、ほろ苦い思いしか残らなかった。

しかし、それで諦めるつもりはなかった。
「世界と勝負できる力をつけて、4年後、必ずこの舞台に戻ってこよう」
ロンドンの地でそう決意した樋口選手は、ある大きな決断を下した。メイン種目の変更だった。

 それまでは、マラソンをメインに考え、長距離での走力を高めるロードでの練習に取り組んでいた。しかし近年の車いすマラソンは、終盤まで大きな集団でもつれる展開の中、ゴール前でのラストスパートで勝敗が決まることが多い。そのため、勝つために不可欠とされているのがスプリント力。ゴール前の短い距離でのダッシュの速さが勝敗を分けるのだ。

「今の時代マラソンでも短距離でも、車いす陸上ではスプリント力が求められる。だったら、思い切ってトラック種目をメインにして、短い距離の力をつけることに集中しよう。そう思ったんです」

 車いす陸上界では、トラック競技をメインにしながらも、マラソンのレースにも出場する選手が少なくない。だが、樋口選手は2012年11月の大分国際車いすマラソンを最後に、トラック一本に絞った。それは、過去の二の舞には決してなるまいという強い気持ちによるものだった。

「実は、ロンドンパラリンピックの1年ほど前から、スプリント力の重要性を感じて、トラックでの練習も取り入れていたんです。おそらくトラック練習の量は、日本人選手の中では最も多かったと思います。でも、結局それだけでは勝負することはできなかった。中途半端にやっていてはダメだなと思ったので、マラソンは競技として出場するのは完全にやめることにしました」

国内ではトップクラスの実力があっただけに、周囲からは当然惜しまれ、反対の声もあがったという。しかし、樋口選手の決意が揺らぐことはなかった。

「たとえこれまで積み上げてきたものがゼロになってもいい。初心者に戻ったつもりで、一からスタートする」
その決意が実ったのは、それから4年後のことだった。

悔いのない達成感を味わったリオ
2016年リオデジャネイロパラリンピック。準備は万端だった。体の仕上がり具合も気持ちも、1年前に出場した世界選手権の時よりも良く、しっかりとピークを合わせてきたという手応えを感じながらの現地入りだった。

エントリーしたのは5000m、1500m、800mの3種目。なかでも自信があったのは5000mで、メダル獲得を目標に臨んだ。

残り1周となり、最後の直線に入った時には6番目の位置にいた樋口選手だったが、そこからの追い上げはすさまじかった。一気に2人を抜き去り、4番目に出た。そして3番目の選手もつかまえにいきかけたところで、ゴール。結果は4位。3位との差は、0.17秒だった。

まさに追求してきたスプリント力が発揮されたレース展開だった。だが、樋口選手には悔いが残ったという。

「最後の直線では、確かに僕が一番速かったと思います。ただ、最後に力を温存した結果、メダルには届かなかった。そういうレースでは4位が精一杯だなと感じたんです」

 その悔いを払拭したのが、1500m決勝だった。トラック競技の中距離である1500mは、日本人選手にとって最も難しい種目とされ、過去のパラリンピックではいずれも予選敗退。決勝進出は日本の悲願とされていた。その1500mで樋口選手が予選を突破し、決勝進出を決めたのは、日本人初の快挙だった。

 ファイナリストの顔ぶれは、まさに世界一決定戦にふさわしいものだった。樋口選手とドイツ人選手の2人を除く、8人中6人がパラリンピックのメダリストだったのだ。しかし、樋口選手は怖気づくどころか、大胆不敵ともとれる戦略を考えていた。

「スタートリストを見たら、トップ選手たちの中に自分の名前があって、この中に入れたというだけでとても嬉しかったんです。でも、だからといって何もしないで終わるのはつまらないなと。せっかくだから、ちょっとレースをひっかきまわして面白くしたいなと思っていました」

樋口選手は、リスクを背負う覚悟で序盤から積極的に先頭に飛び出し、レースを引っ張った。結果は8位だったが、ゴール後は心地よさしかなかった。

「これが今の自分ができる最高のパフォーマンス。すべてを出し尽くすことができた……」
 最大の目標を叶えた達成感が、樋口選手を包み込んでいた。

初めてパーソナルコーチを迎えての新たなスタート
「パラリンピックは、もういいかなぁ」
 リオ直後、樋口選手はそう思っていた。

彼にとってパラリンピックは、4年間、速さを追求してきたことを出し切る場。それを達成した中、4年後を目指す理由は見つからなかった。
 しかし、根っからの研究肌である樋口選手にとって、速さへの追求は最大の“楽しみ”。加えて、走ること自体が好きでたまらない樋口選手は、リオから約1カ月後、練習を再開した。すると、自分にはまだ伸びしろがあることが感じられたという。
 それを確信したのが、翌2017年3月に出場した「シャルージャ国際大会」(UAE)。シーズン最初のレースだったにもかかわらず、1500mで日本新記録をマークしたのだ。自分自身も驚く快走に、次の追求先が見えてきた。

「もう一度、パラリンピックを目指してみようかな」
それは、火山のマグマのように沸々と燃え滾るようなものではなく、いつのまにか地下から湧き出てきた泉のような、静かに自然に湧き出てきた気持ちだった。
 その東京を1年後に控えた今年、新たなスタートを切った。これまでは基本的に一人でセルフコントロールしながら練習をしてきたが、パーソナルコーチを迎えることにしたのだ。アテネ、ロンドンと2度のパラリンピック出場の経験を持ち、2017年に樋口選手に更新されるまで長きにわたって1500m日本記録保持者でもあった花岡伸和コーチだ。もともと親しい間柄で、競技に対する考え方も似通っており、樋口選手が信頼を置く先輩だ。
 しかし、これまでトレーナー以外は一度も指導者をつけてこなかった樋口選手が、なぜ、パーソナルコーチを迎えることにしたのだろうか。
「選手というのは、必ず感覚のズレというのが出てくるんです。それを自分自身で修正するのは決して容易なことではありません。だから客観的に見てくれる人の存在はすごく大事なんです。その点、花岡さんとはもともとテクニックの理論など、自分と考え方が合っていましたし、一番はレースへの気持ちの持って行き方など、メンタル面でいろいろと参考になることが多かった。そういう花岡さんにコーチとして見てもらえるのは、プラスになると思ってお願いをしました」

 一方、花岡コーチは樋口選手をこう評している。
「彼は、そこそこの記録や順位を狙って守りに入ることは絶対にしません。それで得る結果に価値を見出していないんでしょうね。それよりも自分の感覚をとても大事にしていて、『こうしたら、何か得られるものがあるかもしれない』みたいなところを追求したいと思うタイプ。それって選手としてすごく大事なんです。タイムや順位は考えても仕方がない。強くなる課程では妨げになるんです。でも、樋口くんはそういう余計なことは一切考えません。フィジカルが強いうえに、自分で考えられる頭もある。いい意味で周りを気にしないので、集中力も高い。本当に素晴らしい選手です」

 信頼する花岡コーチの協力の下、東京パラリンピックを目指している樋口選手。1年後の“本番”について訊くと、彼らしい答えが返ってきた。
「東京パラリンピックは、41歳で迎える僕にとっては、おそらくは最後になるのかなと思っています。なので、競技人生の集大成として、やってきたことをすべて表現したいと思っています。ただ、地元開催だから何か特別なものを感じているわけではありません。ロンドン、リオに続く3度目のパラリンピック。それが東京で開催するというだけのことなんです」

 そう語る樋口選手の表情は、一切変わらなかった。決して冷淡なわけではない。表情はあたたかな人間味にあふれており、言葉はわずかな濁りもない透明性を帯びている。しかし、通常は“本番”を1年後に控えたアスリートから伝わってくる緊張感が、樋口選手からは感じられない。
自らの走りを追求することにのみ没頭している樋口選手にとって、東京パラリンピックはライバルとの勝負というより、どちらかというと自分との勝負なのだという。だからこそ、最大の目標は「力を発揮すること」のみ。メダル獲得は、その延長線上にある結果でしかない。
 東京パラリンピックに向けても、これまでと何ら変わらず、ただ淡々と強さを追求していくだけ。樋口選手のアスリートとしての生き方にブレはない。

樋口 政幸(ひぐち まさゆき)

陸上競技T54クラス/プーマジャパン所属
1979年1月15日、新潟県生まれ。
高校卒業後、長野県の企業に就職。24歳の時にバイク事故で脊髄を損傷し、車いすユーザーとなる。
リハビリの過程で車いすマラソンと出会い、魅了される。
徐々に頭角を現し、2009年には大分国際車いすマラソンで日本人2位(総合4位)となる。
10年広州アジアパラ競技大会ではマラソンで銀メダルに輝いた。
12年ロンドンパラリンピックに出場し、800mは準決勝敗退、マラソンは13位。
ロンドン後にトラック競技に専念することを決意。
13年世界選手権では5000mで銀メダル、1500mでは銅メダルを獲得した。
16年リオデジャネイロパラリンピックでは5000mで4位入賞、
1500mでは日本人初の決勝進出を果たした。
1500m/5000m日本記録保持者。
 
取材・撮影:越智 貴雄  取材・文:斎藤 寿子