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ATHLETES' CORE

パラトライアスロン


夏・冬両方のパラリンピックで金メダル。陸上競技で今も残る日本記録。フルマラソンでの2度の世界記録更新。燦然と輝く実績に固執することもなく、土田和歌子選手は“新しい自分”を求め続けてきた。マラソンでの悔しさを経て身をおいたのは、水陸を舞台とするトライアスリートの世界だった。「心身ともに集大成」と捉える東京パラリンピックに向かう土田選手は、どのような思いで競技に取り組んでいるのだろうか。
“ケガの功名”で見つけた新たな自分
東京湾にせり出した千葉県の富津岬は、ランナーたちのトレーニングロードとして名高い。

夕刻。防砂林に挟まれた長い直線の先から、一台のレーサー(競技用車いす)が向かってくる。ホイールを回すのは、土田和歌子選手。すぐ隣をロードバイクで走るのは、土田選手の夫で、コーチの高橋慶樹さんだ。この日の午後練習は5キロのコースをレーサーで4周。スイム(0.75キロ)、バイク(20キロ)、ラン(5キロ)の3種目で競われるパラトライアスロンの「ラン」のトレーニングである。

一つ一つの動作を確認するように、腕と上半身をゆったりと上下させる。「携帯電話が自分のフォームの動画でいっぱいになっているんです」。練習後、土田選手はそう言って笑った。

各種目のトレーニングに加えて、「第4の種目」とも呼ばれ、重要視される「トランジション」(スイム、バイク、ランの移行動作)の練度も向上させる必要がある。「PTWC」という車いすユーザーのクラスに属する土田選手は、「ハンドラー」というサポートスタッフと呼吸を合わせてトランジションをこなす。移行速度を極限まで高めるべく、試合を想定した動作を反復し、検証を続けている。

土田選手が陸上からトライアスロンへの転向を発表したのは2018年1月。前年も国際大会で結果を残していたものの、あくまで陸上のトレーニングとして取り組んでいた。そんな彼女を競技転向に向かわせたのは、トライアスロンで得た「新たな発見」であったという。

「陸上ではできなかった体の動きを習得しつつある自分がいて、この競技をもう少し突き詰めたいと思って。例えばスイムは、レーサーをこいでいる時と違って、肩甲骨を緩めて肘を立てる動作が入ってくる。けれど、陸上の動作が染み付いていて脇を締めてしまいがちでした。だから、競技転向して最初の1年間は、動きを習得するためにスイムの練習に注力しました」

16年にパラリンピックの正式種目に採用されたトライアスロンは、歴史が浅い分他競技からの転向も盛んで、特に競泳出身者が多いという。最終種目のランに最も強みを持つ土田選手にとって、第1種目であるスイムの出来が鍵を握っているとも言えよう。

動きを変えれば身体も変わる。新しい自分に生まれ変わる過渡期で、今シーズン序盤は肩の故障も経験した。手術も選択肢にあったが、保存療法に徹した。リハビリプログラムでコンディションを整え、6月末にカナダで開催されたワールドシリーズでは2位に食い込んだ。

「気持ちに任せて練習を詰め込んだことで、自分の身体と向き合っていなかったことも災いしたのかもしれません。また、1つの種目を続けてきたことで、身体の可動域が狭くなっていたことも事実です。故障をきっかけに自分の身体を見つめ直すことができたのは、“ケガの功名”だったと思います」


負けて「悔しい」、でも「後悔はない」
1994年のリレハンメルパラリンピックを皮切りに、勝負の世界で第一線を歩んできた土田選手。98年の長野(アイススレッジスピードレース)、04年のアテネ(陸上5000メートル)で勝ち、日本人史上初の夏・冬パラリンピック金メダリストにもなった。

しかし、マラソンでは、00年のシドニーでは銅メダル、アテネでは銀メダルを獲得しながら、頂点にはついに届かなかった。08年の北京では、5000メートルでクラッシュに巻き込まれて腰骨・肋骨骨折の重傷を負い、途中帰国。マラソン出場は断念せざるをえなかった。12年のロンドンではレース中に再び転倒に見舞われ5位。集団でゴールになだれ込んだ16年のリオではトップから1秒差の4位だった。

頂点に手をかけながら、アクシデントも重なりチャンスをものにできなかった。13年には世界記録を更新しながら、リオでは続々と台頭してきた世界の猛者たちの前に敗れた。それでも、土田選手は「後悔は1ミリもない」と言い切る。

「リオでは、力を全部吐き出した結果、最後に競り負けました。そこまでの実力だったということです。負けず嫌いだから、勝負に負けた瞬間の“悔しさ”はありましたが、それまでやってきたことに対する“後悔”はないですね」

後悔をする余裕などないと言わんばかりに、トライアスロンの世界をノックした。リオ後に発症した喘息治療の一環で水泳をはじめた。かねてから陸上のためのトレーニングと位置付けていたバイク(=ハンドサイクル)、「本職」だったラン(レーサー)と合わせ、トライアスリートとしての土壌が耕されていった。

経緯だけを見れば、競技力向上やリハビリで取り組んだ種目が、自然な流れで新たな挑戦に結びついていったようにも見える。

「スムーズだったわけではないですよ。先が見えなくて都度落ち込むこともある。人間なんで。ただ、今自分にできることって何かな、と自問した時に、自分の気持ちから逃げずに次の目標設定ができるのは、これまでの競技経験が生きている部分じゃないかな、と」


3度目の“てっぺん”に向けて
今年で、45歳になる。疲労回復のスピードも含めて、肉体的な変化で受け入れざるをえない部分はあるという。それでも、これまでの競技経験で磨き上げてきた身体感覚や勝負勘は、大舞台になるほど生きてくるはずだ。競技転向を重ねる中で身に付いた柔軟性も、心身にプラスの影響を及ぼしていると土田選手は話す。

「人は徐々に強くなっていくと思われがちですけど、弱くなっていく部分もある。そんな時に、自分の高め方を知っている選手が、年齢を重ねてもなお強い選手だと思うんです。私自身もそういう選手でありたいと、競技を続けています。まだ、志半ばなんです」

パラリンピックのたびに「集大成」という言葉を使って久しい。「ロンドンの頃から毎回言っているかもしれません」と土田選手は笑うが、それには明確な意図がある。

「毎回、それが最後だと思ってやらないと、やっぱり力が余ってしまうと思うんです」

自身の実力を余すことなく発揮したいという意志が、「集大成」という言葉となって表現されていたというわけだ。その中でも2020年は、土田選手にとって今までとは違う「集大成」になりそうだ。

「私にとって、シドニーから(金メダルを獲った)アテネまでが、4年間をトータルで計画できた期間でした。それ以降は、競技環境の変化や身体的な状況もあり、最適な準備期間を都度、模索していたように感じています。その意味で、2020年は心身ともに集大成になると思っています」

トライアスロンに取り組み始めて2年間は“動きの習得”にあててきた。今年は、次のステージである“競技力向上”の年。リオが終わって4年目にあたる2020年に、最高のパフォーマンスをイメージするための準備期間に据える。

「トライアスロンに関しては、競技力を高める期間はこれから。パラリンピック本番までにどこまで伸ばせるのかは未知数ですが、やるからには“てっぺん”を目指したい。来年は、笑って終わりたいですね」

「自分の最大値は、まだ見えない」。トライアスリートとして土田選手が繰り返し発した言葉である。

25年に及ぶ競技者としてのキャリアを経た今もなお、未知の世界に身を置いている。湧き上がる飽くなき向上心と好奇心が、自身を新たな目標に向かわせ続けてきた。

種目が変わるたびに、サポーターも増えてきた。最も近くで支え続けてきたパートナーの高橋さんは言う。

「これまで2人の夢だった金メダルが、周囲の人たち全員の夢になっている。彼女のサポートに、ある意味人生をかけてくれている人もいるんです」

夏・冬3競技でのパラリンピック金メダルという偉業。3度目の“てっぺん”に向け、土田選手は、期待を力に換え、己の身体との対話を続けていく。

土田 和歌子(つちだ わかこ)

パラトライアスロンPTWCクラス/八千代工業株式会社所属。
1974年10月15日、東京都生まれ。
高校生の時、交通事故に遭い車いすユーザーとなる。
アイススレッジスピードレースの選手として、
1998年、長野パラリンピックで1000m、1500mで金メダル、
100m、500mで銀メダルを獲得。
その後車いす陸上競技に転向し、2004年のアテネパラリンピックでは、
5000mで金メダル、フルマラソンで銀メダルを獲得し、
日本人史上初の夏・冬パラリンピック金メダリストとなる。
現在も800メートル、1500メートル、5000メートル、フルマラソンの日本記録を保持。
2017年からパラトライアスロンに挑戦し、2018年、正式に競技転向。
2018年5月の世界パラトライアスロンシリーズ横浜大会を2連覇、
同年の世界パラトライアスロン選手権では銀メダルを獲得。
トライアスロンで2020年東京パラリンピックでの金メダル獲得を目指している。
 
取材・撮影:越智 貴雄  取材・文:吉田 直人