2003年、25歳でブラインドサッカーに出会った落合啓士選手。
今年9月に行われた2016リオデジャネイロパラリンピックの予選を兼ねたアジア選手権では背番号10を背負い、
キャプテンとしてチームをけん引するなど、これまで常に日本代表の主軸として戦ってきた。
ひたむきにボールを追い続けてきた13年間。ブラインドサッカーとともに歩んできた落合選手を追った。
初の代表もれが促した成長
「オッチーは変わった。昔は今では考えられないほどワンマンだった」
ブラインドサッカー関係者は一様にそう語る。聞けば、以前はミスをした選手にはすぐに腹を立て、自分をベンチに引っこめようものなら監督にさえも不満をぶつけるありさまだったという。転機が訪れたのは、競技を始めて3年目の2005年のことだ。
代表候補の合宿で審判に横柄な態度をとったことで、代表から外された落合選手は、ブラインドサッカーをやめる決意をした。しかし、すぐに所属していた大阪のチームメイトから復帰を願うメールや電話が、毎日来るようになった。無視をしても、「迷惑だ!」と怒鳴っても、連絡が途絶えることはなかった。当時のチームメイト村上重雄氏は、その理由をこう語る。
「彼はサッカーにもっと専念したいと、職場を変えてまで、東京から大阪に移ってきたんです。練習も人一倍やっていましたし、誰よりも努力をしていた。そんな彼にやめてほしくなかったし、やめるとは思えなかった。絶対に戻ってくるだろうと信じていたんです」
3カ月後、ようやく落合選手はチームに復帰することを決意した。しかし、不安がなかったわけではなかった。特に、指揮官にはどんな顔をしたらいいのか……。実は、大阪のチームの指揮官である風祭喜一監督は、彼を代表から外した当時の代表監督でもあったのだ。
「案外、戻ってくるのに時間かかったなぁ」
落合選手が姿を現すと、風祭監督は開口一番にそう言って笑った。すると、チームメイトも「ほんまや、意外にメンタル弱いんちゃう?」と、大阪人らしいツッコミで笑いを誘った。以前と変わらない態度で接してくれた風祭監督とチームメイトの温かさが落合選手には嬉しかった。
実は安堵したのは落合選手だけではなかった。風祭監督も、だったのだ。
「彼は代表にもチームにも必要な選手でした。でも、自己中心的な言動が多かった。代表を外したのは、人として一皮むけてほしいという思いからでした。そしたら、1カ月経っても2カ月経っても練習に来ない。正直、このまま戻ってこなかったらどうしようかと思いましたよ(笑)。練習に姿を現した時は、ほっとしましたねぇ」
その後、落合選手の周囲への態度や言葉はガラリと変わった。ミスをした選手に対してかける言葉は、「下手くそ!」から「どんまい!」へ。技術がおぼつかない選手に対しては「何でできないんだよ!」から「頑張ろう!」へ。自身よりもチームの和を大事にするようになっていった。今では日本代表の精神的支柱としてキャプテンシーを発揮する落合選手。その原型は、この時につくられたのである。
日々の練習が生んだ同点弾
「努力は裏切らない」――。落合選手の座右の銘だが、このことを痛感したのは4年前、仙台市で行われたロンドンパラリンピックの予選だった。グループリーグの韓国戦、後半に先取点を奪われ、リードを許した。しかし終盤、日本はコーナーキックを得た。託されたのは、セットプレーを得意とする落合選手だった。
「ピッ」
審判の笛が鳴り、前にボールを蹴り出した瞬間、落合選手は“ゾーン”に入った。聞こえていたのはゴールの距離や方向を伝えるガイド(※1)の声と、ボールが転がる時に出る音だけ(※2)。思い切り右足を振り抜くと、ボールはゴールへと吸い込まれていった。起死回生の同点弾だった。そして、数分後にはチームメイトが逆転ゴールを決め、日本はそのまま逃げ切った。
実は、同点ゴールを決めた時のセットプレーは、それまでずっと落合選手が練習を重ねてきた秘策だった。ブラインドサッカーでは視覚からの情報がないため、大きく蹴り出すと、ボールを見失ってしまうことが少なくない。そのため、離さないように、ボールを両足で挟むようにしてドリブルする。
しかし、この時は一度、大きめに蹴り出したボールを、そのままシュートしたのだ。蹴り出す強さと方向性がイメージと少しでもズレていれば、空振りに終わり、相手にボールを奪われてカウンターを狙われる危険性もある。そんな難しい技を、彼はふだんから繰り返し練習していた。だからこそ本番では初めて挑むにもかかわらず、成功させることができたのだ。まさに努力の積み重ねが生み出したゴールだった。
落合選手は言う。
「ブラサカは生きていくうえで大切なことをすべて教えてくれました。ブラサカをしていなければ、今の僕はない。それくらい大きな存在なんです」
今年9月、落合選手はキャプテンとして2016リオデジャネイロパラリンピックの予選に臨んだ。しかし、日本はグループリーグ3勝1敗1分で中国、イランに次ぐ3位。順位決定戦では、韓国に破れ、4位という結果で大会を終えた。パラリンピックの出場権が与えられる上位2カ国に入ることはできず、悲願の初出場とはならなかった。
誰よりもチームの勝利を信じて疑わなかった彼にとって、この結果はあまりにも残酷であり、ショックの大きさは計り知れない。しかし、彼はこれからも前を見て歩き続けていくことだろう。世界最高峰の舞台に足を踏み入れる“その時”が訪れるまで――。
※1 「ガイド(コーラー)」とは、自陣のゴール裏に立ち、フィールドプレーヤーにゴールの位置、
距離、角度、相手選手の存在場所などを伝える人。
※2 視覚からの情報がないため、転がすと音の出る特殊なボールを使用する。
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落合 啓士(ブラインドサッカー日本代表)
1977年8月2日生まれ。
10歳の時に徐々に視力が落ちる難病を発症し、18歳で視覚障がい者に。
25歳でブラインドサッカーに出会い、その後日本代表に選出。
東京、大阪での生活を経て2012年より横浜へ。
東京都渋谷区で開催された世界選手権2014、アジア選手権2015では、
日本代表キャプテンとして出場。
ムードメーカーとしてもチームにとって欠かせない存在となっている。
日本代表としてプレーするかたわら、
生まれ育った横浜でブラインドサッカーチームを立ち上げるなど、精力的に活動中。