ATHLETES' CORE

「目は遠くを、足は地に」

一ノ瀬 メイ
ATHLETES' CORE

一ノ瀬 メイ競泳

今年9月、リオデジャネイロパラリンピックに出場した一ノ瀬メイ選手。彼女がメインとしていたのが、200メートル個人メドレーだった。昨年7月の世界選手権で決勝進出を果たし、今年3月のリオデジャネイロパラリンピック選考レースでは自身が持つ日本記録を4秒近く更新した種目だ。しかし、リオでは「自己ベスト更新」「決勝進出」いずれも叶えることができなかった。
「やっぱり、パラリンピックは他の大会とは違う。アップの時はすごく調子が良くて、自己ベストを狙っていたんですけど……実際のレースではいい感覚がなくなっていました」
 これまで本番で力を発揮するのが、一ノ瀬選手の強さでもあった。だが、パラリンピックという舞台は、それを出させてはくれなかった。
 それでも、彼女はこれで終わらなかった――。

2020年東京への足跡

2020年東京への足跡

「個人メドレーが全然ダメで、部屋に戻ってから涙が止まりませんでした。改めて、それだけ自分はこの種目に懸けていたんやな、と思いました」
 自らが最も力を入れてきた200メートル個人メドレーで全体の13位にとどまり、予選敗退に終わった一ノ瀬選手。彼女が受けたショックの大きさは、計り知れない。

 そんな彼女を救ってくれたのは、周囲からの温かい言葉だった。
「監督やコーチ、そして応援に来てくれている家族や友人が、一生懸命に励ましてくれたんです。それと、携帯にも温かいメッセージがたくさん届きました。おかげで、なんとか気持ちを立て直すことができました」

 そうして迎えた3種目目の100メートル自由形、一ノ瀬選手はリオの地で初めて自己ベスト更新をしてみせた。レース後、一ノ瀬選手の表情にはわずかばかりの安堵感が映し出されていた。

 結局、6種目に出場した個人種目では、一度も決勝に進出することはできず、自己ベストも100メートル自由形の一度きりという結果に終わった。しかし、この経験が4年後につながるはずだ。いや、これまでどんな状況下に置かれても確固たる“自分”を持ち続け、道を切り拓いてきた彼女なら、きっとつなげていくに違いない。

 競技初日、一ノ瀬選手はこう語っていた。
「先輩に『初めてのパラリンピックは、わからないことばかりで、あっという間。気づいたら終わっていた、ということだけはするなよ』って言われたんです。だから1本1本、しっかりとかみしめて泳ごうと思います」

 世界最高峰の大会で自らの“最高”を発揮する難しさ。その洗礼を浴び続けた初めてのパラリンピックで、彼女が得たものは決して小さくはなかったはずだ。

痛感した水泳の存在

痛感した水泳の存在

「なぜ、自分は水泳をしているのだろう……」
 一ノ瀬選手が初めて「泳ぐ理由」について考えたのは、4年前。高校1年で臨んだ2012年ロンドンパラリンピック出場をかけて行われた最後の大会だった。当時の自己ベストは、出場資格が得られる派遣標準記録まで0.2秒。決して可能性がないわけではなかった。しかし結果は、自己ベスト更新とはならず、派遣標準には0.31秒届かなかった。

 いつもなら結果に執着することなく、すぐに気持ちを切り替えることができるが、この時ばかりはそうはいかなかった。心の底から込み上げてくる悔しさを、簡単に取り払うことはできなかった。そして、ふと脳裏に浮かんだのは「なぜ、自分は水泳をしているのだろう」ということだった。

「それまでは、なんとなくで水泳をやっていて、いつの間にか強化選手になって、いつの間にかアジアパラに出てメダルを取って……。それで周りには『次は世界だ』って言われていたので、自分でも『あぁ、そうなんや』と。ところが、結局世界の舞台に行くことはできなかった。そしたら思ったんです。『あれ、ちょっと待って。ところで自分はなんで泳いでるんやろ?』って」

 幼少時代から続けてきた水泳だが、特に深く考えたことはなかった。いつの間にか、彼女にとって水泳は、空気のような当たり前の存在になっていたのだろう。そして数日間考え抜いた結果、出た答えは――。

「やっぱり泳ぐことが好きやし、“一ノ瀬メイ”という人間を一番表現できるのは、水泳やなと思ったんです。それと、世界の舞台で勝負している選手たちが見ている景色を、いつか自分も見てみたい、そう思いました」
 それはある意味、競技者としての目覚めの時だったのかもしれない。

国際大会デビューで見せた勝負強さ

国際大会デビューで見せた勝負強さ
国際大会デビューで見せた勝負強さ

 一ノ瀬選手が幼少時代から通っていたのが、京都市障害者スポーツセンターのプールだ。そこのスタッフの一人として、幼少時代から彼女のことを知る現センター次長の猪飼聡氏は、北京パラリンピックまで日本代表監督を務め、現在は日本身体障がい者水泳連盟の2020年推進委員会大会運営部会長として日本のパラ水泳界を支えている。

 その猪飼氏が、一ノ瀬選手の強さを目の当たりにしたのが、2010年、彼女が中学2年の時に出場した、4年に一度のアジア最高峰の大会、アジアパラ競技大会(中国・広州)だった。一ノ瀬選手にとって、それがシニアでは初めての国際大会。当時はまだ目立った存在ではなく、メダル候補にも入ってはいなかった。

 ところが、50メートル自由形で自己ベストを約1.5秒更新し、銀メダルを獲得してみせたのだ。
「彼女のクラス(S9:片前腕切断、片肘離断、片大腿切断、片膝離断など)は選手の数が最も多く、競争が激しい分、どんどんタイムが更新されていくので、必然的にレベルも高いんです。その中でメダルを取るというのは、たとえアジアでも簡単ではありません。日本人は他のメダル候補の選手が軒並み伸び悩んだ中、彼女がパッと出てきたんです。なんて、本番に強い選手だろうと驚きました」

 その日、彼女の思わぬ躍進に驚いた人物がもう一人いた。その年の2月から彼女を指導していた谷川哲郎コーチだ。当時、大学院生だった谷川コーチは自らも水泳でオリンピックを目指しながら、週に一度、一ノ瀬選手を見ては、練習メニューを考えて渡していた。

「アジパラはギリギリで掴んだような感じで、メダルを取るなんて本人も私も考えていませんでした。だから『ベストが出たらいいな』くらいにしか話をしていなかったんです。そしたら現地から電話がかかってきて『コーチ!銀メダルを取りました!』と。ものすごく驚いたのを覚えています。ただ、今思えばそういう国際大会でも物怖じせず、ここぞという時の度胸こそが、彼女の強さなんでしょうね。これは教えられるものではなく、彼女の持って生まれた才能に他なりません」

 一ノ瀬選手もまた、自らの可能性を信じている。それは彼女の好きな言葉にも表れている。
「目は遠くを、足は地に」
 高校入学時、学校案内のパンフレットに書かれてあったこの言葉に一瞬で魅かれたという。

「当時は世界ランキング20位くらいのところで停滞していて、『あぁ、自分はこのままなんかなぁ』と思っていたんです。でも、その言葉を見た時、『そう決めつけているのは、自分なんやな』って気づいたんです。確かに今、20位のところに足はついているけど、目まで足元を見てたらあかんやん、って。そう思えたら、なんだか吹っ切れた感じがしました。今も大事にしている言葉です」

 しっかりと地に足をつけながら、自分の可能性を信じて、今やるべきことをやる。4年後に向けても、それは変わらない。

PROFILE
  • Profile image.

    一ノ瀬 メイ(いちのせ めい)

    水泳競技・S9クラス/近畿大学水上競技部所属
    1997年3月17日、京都府生まれ。先天性右前腕欠損症。
    1歳半から京都市障害者スポーツセンターで泳ぎ始めた。
    2010年、中学2年時に競泳女子日本代表としては
    史上最年少でアジアパラ競技大会に出場し、50メートル自由形で銀メダルを獲得。
    2013年、高校2年時に出場したアジアユースパラ競技大会で
    100メートル自由形と同平泳ぎで日本新記録を樹立し、優勝。
    100メートル背泳ぎと合わせて3冠を達成した。
    2014年、高校3年時のアジパラ(韓国・仁川)では
    銀メダル(200メートル個人メドレー、100メートル平泳ぎ)と
    銅メダル(50メートル自由形、100メートル背泳ぎ)を獲得。
    2015年近畿大学に進学し、水上競技部に入部。
    同年の世界選手権では200メートル個人メドレーで8位入賞。
    2016年3月の選考会では200メートル個人メドレーで日本新を樹立し、
    リオデジャネイロパラリンピック出場を決めた。
    リオでは、8種目に出場し、100メートル自由形では3年ぶりに自己ベストを更新した。
     

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