ATHLETES' CORE

「なんくるないさ〜」精神で沖縄から世界へ

喜納 翼
ATHLETES' CORE

喜納 翼陸上(車いすレース)

車いすマラソンで有利な長い腕。ハードな練習も音を上げずにやり切れる根気強さ。トップ選手になるための資質を持ち合わせた喜納翼選手は生まれ故郷の沖縄から世界へ羽ばたいたアスリートだ。2021年夏の東京2020大会では自身初となるパラリンピックの日本代表にも内定した。彼女の背中を押すのは活躍を応援してくれる人たちと沖縄でおなじみの、あの言葉。地元の期待を力に変えて走る喜納選手にインタビューした。

沖縄の練習環境は強みの一つ

沖縄の練習環境は強みの一つ
沖縄の練習環境は強みの一つ

 一年を通して温暖な沖縄県はアスリートにとって理想的な環境だ。本州が寒い時期にはさまざまな競技の選手たちが全国から合宿にやって来る。生まれ故郷のうるま市を拠点にする喜納翼選手も、「年間を通じて走れる環境が私の強みの一つ」と胸を張る。
そのおかげでコロナ禍でもコンスタントに練習を積むことができ、パンデミックで海外遠征が減った昨年一年間は、これまでなかなか時間を割けなかったウェイトトレーニングにも取り組めた。「今年の春は十分な走り込みができた」と充実の表情だ。

「上り坂が弱いというのがずっと課題だったので、ウェイトトレーニングで筋力を強化し、上り坂でのスピードアップにつなげるのが目的でした。また、筋力アップによって生まれたパワーをレーサー(陸上競技用車いす)のハンドリム(駆動輪となる後輪の外側に付いたリング状の持ち手)にしっかり伝えられるよう、体の使い方も練習もしました」

身長173cmの喜納選手は長身なぶん体重が重く、下り坂ではスピードに乗れるが上り坂になるときつくなる。そのためトレーナーに付いて、ロープ状の用具を使うTRXやメディシンボールを用いたトレーニングメニュー、自重トレーニングなどで筋力アップに努め、体幹も鍛えた。
そして、今年3月に開かれた立川、名古屋、駒沢の3連戦の直後から走り込みに入り、平日は競技場のトラックで周回を重ね、週末は40km走を行った。

走り込み練習はフルマラソンに必要な持久力をつけることが主な目的だ。しかし、喜納選手の場合、「ウェイトトレーニングで筋力アップした後、今度は徹底的にレーサーを効率よく漕ぐ動作に落とし込まなければならない」と言い、400mトラックをノンストップで100周走り続けるハードな練習にも取り組んだ。

「トラックで40km走をするって、他の選手からは聞いたことがないかも。私、器用じゃなくて、体の使い方をマスターするまで時間がかかるので、とにかく練習量をこなして体に動きを覚えさせるんです。よくコーチからも『不器用だな〜』って言われますよ。でも一度、馴染んだという感覚が得られれば、その感覚は簡単に体から離れることはありません」

バスケットボールからの転身

バスケットボールからの転身
バスケットボールからの転身

 喜納選手は、もとはバスケットボールの選手だった。始めたのは小学4年生で、中学・高校時代はバスケットボールが盛んな沖縄の県代表にも選ばれた。
大学進学後もバスケットボールを続けたが、一方では小学生のときから、腸に原因不明の炎症が起きる潰瘍性大腸炎で慢性的な体調不良に悩まされていた。そのため主治医から手術を提案された大学1年生のとき、大好きなバスケットボールを辞める決意を固めた。

「よし、バスケを辞めるなら最後に悔いの残らない練習をしよう」。そう思い立った矢先だった。自主トレーニング中、いつもより重量を重くしたバーベルをフックにかけて戻そうとしたところ、片側が外れていることに気づかず、落ちてきたバーベルに押し潰されるようにして脊髄を損傷。喜納選手はへそから下の感覚を完全に失った。

「救急車を待っているときにもう足の感覚がなかったので、これは神経をやっているな、車いす生活も覚悟しなくちゃいけないなと思いました。ただ、両親は私以上にショックを受けていましたよね……」

 そんな思いをしたにもかかわらず、残りの大学生活でリハビリに励んだ喜納選手は大学を無事卒業した後、またスポーツの世界に舞い戻った。

「父が、もうスポーツはやらないでほしいと言っていたんですけれども、高校時代に井上雄彦さんの漫画が大好きで、車いすバスケットボールを題材にした『リアル』を読んでいたので、リハビリが済んだら自分も車いすバスケをやってみたいなと密かに思っていたんです」

 車いすバスケットボールの見学に訪れたスポーツ施設では、現在彼女のコーチを務める下地隆之さんと運命的な出会いを果たす。当時、その施設で職員として働きながら車いす陸上の指導もしていた下地コーチから、「パラスポーツには車いす陸上もあるよ」と勧められたのだ。

「車いすバスケも3カ月くらいやってみたんですけど、自分の知っているバスケとはやはりチェアワーク(競技用車いすの操作)の部分がかなり違って、新たに始めるならバスケ以外のスポーツもいいかもしれないと思ったんです。初めてレーサーに乗ったときはおそらく時速5kmも出ていなかったと思いますけど、風を切って走る感覚がものすごく気持ち良かったです」

今、振り返れば「下地さんにまんまと乗せられた」と笑う喜納選手。実際、下地コーチも彼女のバスケットボールでの競技歴と体格に惚れ込んだ上でのスカウトで、「下地さんが沖縄にいてくれて本当にラッキー。私を見つけてくれたことに感謝しかありません」と全幅の信頼を寄せる。

人々の喜ぶ顔と「なんくるないさ〜」を支えに

人々の喜ぶ顔と「なんくるないさ〜」を支えに
人々の喜ぶ顔と「なんくるないさ〜」を支えに

 地に足を着けて努力できる喜納選手は、本格的に競技を始めた2014年からの積み重ねが実り、2019年、世界の強豪が集う大分国際車いすマラソンで日本記録を樹立した。順位は2位だったが、2016年に自身初マラソンでマークした優勝タイム1時間44分56秒を上回る、1時間35分50秒の自己ベストだった。
そして、このときの成績が東京2020パラリンピック出場基準24カ月ランキング(2019年4月1日〜2021年4月1日)の4位浮上につながり、今年5月10日、待望の東京2020大会日本代表に内定。自身初となるパラリンピック出場の切符を引き寄せた。

 しかし、彼女が喜びを爆発させることはない。それよりも代表に内定した現実を噛み締めるように、「いい環境で練習ができて、いい指導を受けられて、いい道具を使わせてもらえているおかげです。人との出会いと繋がりの中で今の自分があるので、どうしても自分一人の喜びにはならないんです」と周囲への感謝を口にする。

道具の面では2018年から“Honda”こと本田技研工業の技術研究所が手がけるフルカーボンフレームのレーサーの提供を受けている。カーボン製は、それ以前に乗っていたアルミ製よりも軽量かつ走行時の安定性に優れている。また、同社のレーサーにはF1やジェット機の先端技術が応用されていて、モノコックフレームやステアリング機構などは従来のレーサーにはない形状だ。こうしたメーカーの申し出は喜納選手の将来性が買われてのことである。

 自分を応援してくれる人たちの喜ぶ顔が競技へのモチベーション。辛いときも「ここでもう一踏ん張りしてタイムを延ばすことができたら、フィニッシュを待ってくれている人たちが喜んでくれるに違いない」という思いが彼女の背中を押す。
そしてもう一つ、支えにしている言葉がある。沖縄の方言で知られる「なんくるないさ〜」だ。

「適当とか大雑把な印象があるかもしれませんが、自分の出来ることを頑張っていけば結果はついてくるよ、どうにかなるよという意味なんです。私、この言葉が大好きで。何しろ不器用だし、まずはやってみよう、頑張ってみようというタイプなので」

 おおらかな沖縄の風土に育まれた彼女に余計な気負いはない。

PROFILE
  • Profile image.

    喜納 翼(きな つばさ)

    車いすマラソンT54クラス/タイヤランド沖縄
    1990年5月18日、沖縄県生まれ。
    大学1年時のトレーニング中の事故で下肢完全麻痺に。
    2013年、初めてレーサーに乗り、2014年に本格的に競技を開始。
    2016年、フルマラソン初出場の大分国際車いすマラソンで優勝。
    2019年世界選手権5位、大分国際車いすマラソンで日本記録樹立(1時間35分50秒)
    2021年5月、東京2020パラリンピックの日本代表に内定。

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