ATHLETES' CORE

アスリートではない、スノーボーダーとしてパラリンピックを目指す

岡本 圭司
ATHLETES' CORE

岡本 圭司スノーボード

プロスノーボーダーとして“かっこよさ”を追求し、ビックエアやスロープスタイルなどフリースタイルのトップライダーとして世界で活躍してきた岡本圭司選手。その彼が、3月4日に開幕する北京パラリンピックにパラスノーボーダーとして出場する。しかし、彼自身は「自分はアスリートではない」と語る。その真意は、どこにあるのだろうか。岡本選手にインタビューした。

スノーボードは初めて自分のマインドにフィットしたスポーツだった

スノーボードは初めて自分のマインドにフィットしたスポーツだった

子どもの頃からスポーツが好きだった岡本選手は、サッカー、野球、スピードスケート、陸上と、ジャンルを問わず、さまざまなスポーツを経験してきた。しかし、高校3年生の時、卒業旅行で初めてやったスノーボードは、それまで経験してきたスポーツとは全く異なる感覚だった。

「雪山でのスノーボードって、どこでターンをしてもジャンプをしても、いいわけじゃないですか。その自由さが、すごく楽しかった。僕のマインドにピタリとハマるものがあって、“やりたかったのは、これだ!やっと出会えた!”と思いました」

それまで何をしても本気になれず、これといった夢や目標を見つけられずにいたが、スノーボードだけは決して飽きることはなく、常に“もっとうまくなりたい”という気持ちが沸き起こった。

大学卒業後、プロスノーボーダーを目指していた岡本選手に転機が訪れたのは、24歳の時。ニュージーランドオープンという世界各国のプロが集結する大会に、もともとエントリーしていた海外選手が欠場となり、ウェイティングリストにあった岡本選手が出場できることになったのだ。すると、そこで8位入賞という好成績を収めた。

さらに翌年に出場したアジアオープンでは7位入賞。そこで披露した超難度の技が関係者の目に留まり、日本最高峰の大会「日産X-TRAIL JAM IN 東京ドーム」に海外のトップ選手たちに並んでオファーがきた。そこで、岡本選手は日本人最高の5位という成績を残し、会場から最も印象に残ったライダーとして“MOST IMPRESSIVE RIDER賞”に選出された。

27歳の時にはドイツの老舗ブランド「VOLKL」と日本人では初めてインターナショナル契約を締結。実質、プロスノーボーダーとして活動することが可能となり、ビックエアやスロープスタイルなどフリースタイルのトップライダーとして、独自のスタイルを確立していった。

しかし、世界のレースでは入賞はしても表彰台には上がることはできなかった。勝敗で一喜一憂することへの疑問と力の限界を徐々に感じ始めていたちょうどその頃、膝を複雑骨折した。そこで、岡本選手は自分自身を見つめ直し、思い切ってコンテストの世界から離れることを決意。スノーボードの本来の魅力である“自由な楽しさ”や“かっこよさ”を求め、29歳からは、「ライフスタイルとしてのスノーボードのカルチャーやかっこよさを伝える」ために映像や写真など表現の世界に活動の場を移した。

「本当にやりたかったのは、こういうことだったんだよな」

19歳でスノーボードを始めた時と同じように、自分のマインドにピタリとハマるものが見つかった感覚があった。岡本選手は、忙しくも、充実した毎日を送っていた。

予想外の全敗で胸が高鳴ったパラスノーボード

予想外の全敗で胸が高鳴ったパラスノーボード
予想外の全敗で胸が高鳴ったパラスノーボード

そんな彼の人生に、突如、思いもよらない出来事が起こったのは、2015年2月、33歳のときだった。撮影中の事故で脊髄を損傷。当初は「車いす生活での一生」を宣告されるほどの大ケガだった。

絶望感しかなかった岡本選手がもう一度気力を取り戻すことができたのは、居場所を作って待ってくれていた仲間や支えてくれた家族の存在があったからだ。懸命なリハビリで自立歩行できるまでに回復した岡本選手は、退院後にスキー場で仲間とスノーボードを滑ってみた。だが、ほとんど動かすことのできない右脚では、以前のようなパフォーマンスはできず、そんな自分へのもどかしさしかなかった。何かスノーボードに代わって“ハマるもの”がないかと、写真や映像撮影の勉強をしたり、世界を広げようと旅をしたり、あるいは以前やっていたDJの音楽活動を再開するなど、さまざまなことにチャレンジした。

どれも十分に楽しいと思えるものばかりだったが、19歳でスノーボードに出会った時のように、ぴったりと自分のマインドにフィットするものは、なかなか見つけられずにいた。

そんなある日のこと。何かのきっかけでパラスノーボードの大会があることを知った岡本選手は、興味を抱き、参加してみようと思った。パラスノーボードの種目は、バンクと呼ばれるカーブが連続するコースを滑り降りてタイムを競い合うバンクドスラローム、バンクやウェーブ、キッカーなど障害物のあるコースを数人の選手が同時に滑走しタイムを競うスノーボードクロスの2種目がある。この時、岡本選手はスノーボードクロスに出場した。

これまでの岡本選手がやってきたフリースタイルのスノーボードとは、まったく異なるスノーボードクロス。レース自体、初めてだった。意気揚々と参加したが、なんと自分よりも障がいの重いクラスの選手にもかなわずに全敗を喫したのだ。

「さらっと優勝して、“ま、元プロの僕ならこんなもんですよ”と言おうと思っていたんですけどね。それが全敗でしたから、恥ずかしくてすぐに帰りましたよ(笑)」

しかし、それがかえって岡本選手の心をくすぐったのだ。

「経験したことがない世界で、ゼロからのスタート。前の自分と比べる必要がありませんでした。そしてもともと楽しさの中に“上を目指す”ことに魅力を感じるタイプなので、そのライフワークを取り戻すことができたのがパラスノーボードだったんです」

“人間の可能性が詰まっている”パラリンピックの世界

“人間の可能性が詰まっている”パラリンピックの世界
“人間の可能性が詰まっている”パラリンピックの世界
“人間の可能性が詰まっている”パラリンピックの世界

パラスノーボードを始めて4年。最初はかすんでさえも見えていなかった世界トップクラスの選手たちの背中は、今では視界にとらえ始めたという感覚がある。その距離は決して近くはないが、不可能な距離ではない。

「はじめはトップと5秒も差があったのが、今は3秒くらいにまで縮まっています。ただ、ここから距離を縮めるのが本当に難しいんです」と岡本選手。北京パラリンピックまでにどれだけ近づくことができるかがポイントとなる。

しかし目標を聞くと、興味深い答えが返ってきた。

「僕自身の目標というのは、ないですね(笑)」

そして、こう続けた。

「日本チームとして目標としていたのが、まずは6人そろって北京パラリンピックに出場すること。前回の平昌パラリンピックで金メダルを取った(成田)縁夢(ぐりむ)みたいに飛びぬけてうまい選手はいないですからね。僕がやり始めた当初は、誰も入賞すらできなかった状態でした。でも、それが今ではみんなが入賞できるくらいにまでなっている。みんながそれぞれの強みを持ち寄って、補い合いながら強くなってきたんです。だから、北京パラリンピックでも総力戦。6人でメダルを狙いに行こうと。日本人の誰かが表彰台に上がることが目標です」

元々、スノーボーダーには、誰が勝っても称え合うといったお互いを高め合うカルチャーや攻め切る姿勢を大切にするマインドがあり、北京に向かう日本代表チームにもそれが色濃く感じられる。岡本選手は強みであるフリースタイルで培ったテクニック、そしてモチベーションの高さでチームを引っ張る。一方で、華奢な身体がコースによっては当たり負けやスピードの競い負けをしてしまう自身の課題をチームに共有して、大岩根選手や市川選手の助言を受けて、ギアの調整やフィジカルの強化を本番ギリギリまで行っていくという。

もちろん、金メダルを取りたいとも思っているし、勝ちたいとも思っている。しかし、それがスノーボードをしている一番の理由ではない。

「どれだけ自分に厳しくできるかがアスリートだとしたら、僕はアスリートではないんです。僕のマインドの中心にあるのは、自分がどれだけ楽しめるか。パラスノーボードでいろいろな人に出会うことも、レースに出ることも、そしてパラリンピックという上の世界を目指すことも、すべて楽しいと思える。その気持ちが一番です」

アスリート岡本圭司、ではなく、あくまでもスノーボーダー岡本圭司として世界最高峰の舞台を目指す。

「怪我をして一度は人生が終わったと思うような経験をした人間が、世界のトップにまで行くことができる。それって、人に残された可能性を表現していると思うんです。だから僕も、その可能性を表現したい。それが、僕がパラリンピックに出場する理由の一つです」

そして、世界最高峰の舞台を経験した後の自分を考えると、楽しみでもある。

「僕は一つ一つの目標を達成するたびに、また新たな目標を見つけてきました。だから今回も、北京パラリンピックに出て見て、自分がどう思うのか、どんな目標を見つけるのか、楽しみ。とにかく今は北京に向けて、できる100%をやり続ける。それしかないです」

PROFILE
  • Profile image.

    岡本 圭司(おかもと けいじ)

    パラスノーボードLL2クラス/COWSPORTS所属
    1982 年2月20日、兵庫県生まれ。
    大学卒業後にスノーボードを始め、大学卒業後の24歳の時にニュージーランドオープンで8位入賞。
    25歳の時にアジアオープンで8位入賞した。その後は、TTRワールドスノーボードツアーに参戦。
    27歳の時には日本人で初めてドイツの老舗ブランド「VOLKL」とインターナショナル契約を結び、
    プロスノーボーダーとしての地位を確立。
    29歳からは「スノーボードのかっこよさ」を伝えるために、
    レースから映像や写真の表現に活動の場を移した。
    2015年、33歳の時に撮影の事故により脊髄を損傷し、リハビリで自立歩行まで回復。
    19年よりパラスノーボード日本代表チームの強化指定選手となり、
    2022年北京パラリンピック出場が内定している。

TOP