「もう、誰が相手でも勝てる」
昨年12月、眞田卓選手はシーズン最後に新たな自分への可能性を感じ、1年を切った“本番”への自信を掴んだ。それは1年間続いていたトンネルをようやく抜け出し、その先に見つけた光でもあった――。
現状打破に導いた欠場という決断
シーズン最終戦となった世界マスターズ(ロンドン)。世界トップ8のみが出場できるこの大会に、眞田選手は「優勝も狙える」と思えるほど、コンディションの良さを感じていた。体のどこにも痛みがない状態は、パラリンピックを目指し始めた2011年に右肩を故障して以降、初めてのこと。そして、それは2カ月前までは予想していなかったことだった。
リオデジャネイロパラリンピックを翌年に控えた昨年、眞田選手は人知れず苦しんでいた。「常に世界ランキング8位以内にいる安定感」を目標にし、実際に1年間、一度もランキングを落とすことはなかった。だが、8位の座から上がることもなかった。そんな停滞状態の自分自身に伸び悩みを感じていたのだ。
現状維持の状態から打破しようと、用具も試行錯誤していた。昨年10月には、ラケットの重さを一気に50グラム軽くした。ところが、そのラケットを使用した米国の大会で、結果は優勝したものの、右肩を痛めてしまった。
「ラケットが軽くて振れたので、自分の力を余分に爆発させてしまったことが原因だと思います」
しかし、そのままカナダへと移動し、次の大会にも無理に出場したことで、さらに右肩は悪化。帰国後はラケットを持って上げることも、車いすを操作することもままならない状態だったという。約3週間後には広島での大会が迫っていた。「1週間すれば、また練習もできる」と思っていた眞田選手は、当然のように出場するつもりでいた。だが、トレーナーがストップをかけた。今は休養すべき時だと判断したのだ。
初めは「痛みがあるなんて選手として普通のこと。欠場までして休養することには抵抗があった」が、最後にはトレーナーの助言を受け入れ、欠場を決意。次の大会までの間にMRIやレントゲンを撮って体の状態を把握することにした。レントゲン写真を見ると、右肩の肩鎖関節の部分が真っ白に写り、ひどい炎症を起こしていることがわかった。そこで体に負担のかからないフォームの修正にとりかかった。これが功を奏し、全くと言っていいほど痛みのない状態で、世界マスターズを迎えることができたのだ。
「それまでは痛みが出たら、ステロイドの注射を打ってプレーしていたんです。でも、ステロイドは一過性のもの。すぐにまた痛みが出てきて……ということを繰り返していたんです。それを今回は、きちんと体の状態を把握したうえでフォームの修正をした結果、世界マスターズでは1週間の大会期間中、痛みが出ることはありませんでした。痛みというストレスなくプレーできるようになったことは、本当に大きかったです」
そして、そのコンディションの良さが、眞田選手に新たな力を生み出すこととなった――。
開かれた次のステージへの扉
「優勝の可能性」を感じながら臨んだ世界マスターズ。しかし、予選リーグ、7-8位決定戦の4試合で全敗と、結果だけを見れば惨敗に終わった。だが、帰国した翌日のインタビューで、眞田選手は意外な言葉を口にした。
「今、絶対王者はいません。世界の上位8人は、誰が勝ってもおかしくない。今回の世界マスターズで初めてそう思うことができました」
そこには、もちろん自分自身の存在もしっかりと入っている。
その最たる要因となったのが、予選リーグ初戦だった。相手は同じ日本人の国枝慎吾選手。北京、ロンドンと2大会連続でのパラリンピック金メダリストだ。その世界一の試合巧者である国枝選手相手に、第1セット、ゲームカウント5-2と大きくリードしてみせたのだ。
「あの時の集中力は自分でも驚くほど高かった。体のキレも良く、精神的にも全く雑念のない状態でした。相手の動きも全て見えていましたし、次にどこに打ってくるか、相手の心理も読めました。あんなふうに“ゾーン”に入ったのは初めてでした」
どこにも痛みのないストレスフリーの状態が、“ゾーン”を生み出していた。
しかし、それは長くは続かなかった。8ゲーム目、ルーティン通りではなく、審判に促されるまでコートに戻らなかった国枝選手の姿を見て、「動揺しているのだろうか、それとも作戦なのだろうか……」と考え始めたことをきっかけに、集中力が切れてしまった。それまで調子の良かったサーブで3本連続ダブルフォルトとミスを連発。そこから一気に流れは国枝選手へ傾き、第1セットを奪われてしまう。続く第2セットも立て直すことができずに奪われ、ストレート負けを喫した。
その後も、勝ち星はつかなかった。しかし、その結果に落胆はしていない。なぜなら、初戦にあった“ゾーン”が毎試合のようにあり、その時間帯は誰が相手でも優位に試合を進めることができたからだ。コンディションを万全な状態に持っていければ、さらに強くなれることを確信したことが大きな自信となっていた。
「今後勝ちにつなげるには、いかに“ゾーン”を長く維持することができるか。そして、それ以外の時間帯を、いかに粘ることができるか、だと思っています」
今年9月、リオの地で、もう一段階上のステージへと上がった眞田選手の姿が見られるに違いない。
胸に刻んだ金メダリストからのひと言
眞田選手にとって、今でも忘れられない言葉がある。今から5年前の2011年、まだ彼がパラリンピックを目指し始めたばかりの頃のことだ。ある大会で、日本人選手同士が会話をしていた。輪の中心にいたのは、当時既に北京パラリンピックで金メダリストとなっていた国枝選手。「ピンチの時は、どうしているんですか」などと質問する女子やクァード(三肢以上に障がいがあるクラスで男女の区別なしで試合が行われる)の選手にアドバイスを送っていた。
そこで、眞田選手も聞いてみた。
「国枝さん、僕にも教えてください」
すると、国枝選手はこう答えたという。
「いや、お前には教えないよ。だって、お前はオレと同じ舞台に立っている選手だろ」
全くの予想外の言葉だった。当時、国枝選手はまだまだ手の届かない存在。公式戦では一度も対戦したことはなく、「同じ舞台」に立っているとは思っていなかったからだ。だが、国枝選手は「いずれは同じ舞台で戦う相手になる」とにらんでいたのだろう。そして実際、その通りになった。その年、眞田選手は瞬く間に世界トップ10入りをし、翌2012年にはロンドンパラリンピック出場を果たしたのだ。
「当時の僕は、海外ツアーを周り始めて数カ月で、わからないことだらけでした。国枝さんには初めての街を案内してもらったりして、“兄貴”という感じで甘えていたんです。だから、まさか僕をそんなふうに見ているなんて、思ってもいませんでした。国枝さんに『同じ舞台』と言われて、誰が相手でも全員に勝つつもりで試合に臨まなければいけない、とわかったんです」
あれから5年。彼の中で、国枝選手の存在はまた少し変化しようとしている。もちろん、これまでも「勝つつもり」で戦ってきた。それは国枝選手に限らず、世界のトップ選手全員にである。しかし今、彼の中にあるのは「勝つつもり」ではなく、「勝てる」という気持ちだ。
世界ランキング8位は、現在日本人では国枝選手に続く2番目。4枚あるリオへの切符は、ほぼ手中に収めたと言ってもいい。2度目のパラリンピックまで残り7カ月、やるべきことはもうわかっている。
「どのシードであろうと、誰が相手だろうと、関係ない」
苦しんだ末に掴んだ自分自身への信頼が、眞田選手には今、ある。
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眞田 卓(さなだ たかし)
車いすテニス男子
1985年6月8日、栃木県生まれ。
中学時代にはソフトテニスで県大会ベスト4進出。
19歳の時にバイク事故で右膝関節の下を切断。入院中、リハビリで車いすテニスと出合う。
2011年からパラリンピックを目指し、本格始動。
翌2012年ロンドンパラリンピックに出場し、シングルスでベスト16、ダブルスでベスト8。
世界マスターズには2014年、2015年と2年連続で出場。
日本マスターズでは2015年に初優勝を果たした。
世界ランキングはシングルス8位、ダブルス12位(2016年2月現在)。