誰よりも圧倒的に速い。10代の頃から愛用しているヘルメットの色から「スイスの銀色の弾丸」と呼ばれ、東京パラリンピックでは800m、1500m、5000m、車いすマラソンで4つの金メダルを獲得したマルセル・フグ選手。特に車いすマラソンでの強さはすさまじく、「マルセル・フグが出場するレースはつまらない」とまで言われるようになった。なぜ、ここまで強いのか。異次元の強さに迫る。
ギアが入るとマリオカートのスター状態
今年の3月5日に開催された東京マラソン2023で、マルセル・フグ選手(スイス)は1時間20分57秒の大会新記録で優勝した。25kmすぎの上り坂で一気にスピードを上げると、2位の鈴木朋樹選手とは3分34秒の差をつけた。
レース後のインタビューで「1人で走る区間が長くて少し疲れましたが、大会新記録の可能性があったので、強い気持ちで走りました」と話した。ただ、5kmごとのラップタイムは、15〜20km区間以外は9分30秒前後の安定したペースを維持。勝利は余力を感じさせるものだった。
1986年生まれの37歳。車いすマラソンは他競技に比べて選手寿命が長いが、すでにベテランの領域に入っている。それでも、一度ギアが入ってトップスピードに乗ると、誰もついていけない。鈴木選手は、その様子を「(ゲームの)マリオカートの『スター』を使っている状態」と形容する。とにかく“無敵”なのだ。
無敵の帝王は、生まれた時に神経障害である二分脊椎症と診断され、幼い頃から車いすで過ごしてきた。車いすレースと出会ったのは10歳の時だった。
「もともと車いすスポーツのクラブに入っていていろんなスポーツをしていたけど、たまたま車いすレースに参加したら、とても楽しかった。スピード、ダイナミックさ、そしてレースでは戦略が重要になる。そのすべてを好きになったんです」
レース・大会に出場すると、陸上のコーチだったポール・オダーマット氏が彼の才能をすぐに見抜いた。コーチに就任し、それから20年以上にわたってフグ選手を指導し続けている。
トレードマークとなっている銀色のヘルメットも、オダーマット氏が10代の頃にプレゼントしたものだ。光を反射するこのヘルメットは、他の選手と一緒にいると異彩を放つ。目立ちすぎることに気が引けることはなかったのか気になるが、本人は「このヘルメットを着け始めたのは15歳の時だったし、ただ楽しかった」と笑う。
シルバー・コレクターと呼ばれた20代
20代の頃はパラリンピックで表彰台のトップに立つことはなかった。18歳の時に初出場したアテネ大会(04年)では銅メダル2つ、北京大会(08年)ではメダルなし、ロンドン大会(12年)では車いすマラソンと800mで銀メダル2つ。周りからはトレードマークのヘルメットを皮肉って「シルバー・コレクター」と呼ばれ、「ヘルメットを金色にしたら?」とからかわれることもあった。それでも、このヘルメットをかぶり続けた。
「たしかに北京大会は残念だったけど、ロンドンでは銀メダルが取れた。自分の中では『いつか金メダルが取れる』と思っていたから、落ち込むことはまったくなかったよ」
その言葉通り、30歳の時にリオ大会で金2つ(車いすマラソン、800m)に輝くと、東京大会ではエントリーした4種目すべてで金を獲得した。
冬の期間は1週間で3、4回はフルマラソンの距離を走理、持久力をつける。筋力トレーニングでは器具を使うことは好まず、ウェイトを使うことが多いという。
「トレーニング器械を使うと、左右のスタビリティ(安定性)を考えなくなってしまう。それよりも、ウェイトを使って自分の頭で体のバランスを考える方が好きなんだ。頭を使って、体の左右の力をコーディネーション(調整・一致)させるようにしていることを意識しているよ」
コーチのオダーマット氏からは、10代の頃から練習の内容について「これをしろ」「あれをやれ」と言われたことはないという。自分の掲げた目標に近づくために、自分の考え、トレーニングを重ねる。その繰り返しだ。
「ポールは、彼の経験を僕にたくさん話してくれて、たくさんのことを学んだよ。よく言われるのが、『X・プラス・ワン』ということ。たとえば、Xをスピードだとすると、最高スピードが出た時に、あと時速1kmをプラスする。レース中にアタックを受けて追い抜かれた時は、プラス・ワンして相手に返す。それは今でも心がけている」
最も大切なことはレースを楽しむこと
通称レーサーと呼ばれる競技用車いすは、自動車F1でアルファ・ロメオ・オーレンを運営しているザウバー・グループが開発したものを使用している。フグ選手によると、過去に使用していたレーサーに比べて強度が高く、柔軟性は低いという。一方、素材にカーボンを使用しているため重量が軽く、F1マシンの開発で蓄積した空気力学の知見がふんだんに搭載されている。技術の進歩に合わせ、レーサーの性能を極限まで引き出すために、座るいすの位置を低くした。
世界トップの選手が、最先端の技術を搭載したマシンに乗る。まさに「鬼に金棒」である。その効果は驚異的だ。エントリーした種目すべてで金メダルを獲った東京2020パラリンピックが終わってすぐの2021年11月の大分国際車いすマラソンでは1時間17分47秒のタイムを出し、22年ぶりに世界記録を更新した。
今では、世界中の若い車いすレーサーたちがマルセル・フグに憧れ、彼を目指している。では、フグ選手がそういった選手にアドバイスをするとしたら、何を伝えるのだろうか。
「最も大切なことは、レースを楽しむこと。楽しむことができなかったら、成功はしない。あとは、集中する時と、リラックスする時のバランスを保つこと。レースについて考える時は徹底的に考え、そうでない時は何も考えない。その切り替えだね。プレッシャーを感じすぎないことかな」
37歳になれば、体の衰えも出てくるはずだ。ところが、その様子がまったく見えず、むしろ強さを増しているのはなぜだろうか。
「たしかに、短い時間で一気に力を出す力は年齢とともに弱まっていくと思う。ただ、年齢を重ねるごとに持久力はまだ向上すると思っている。そこのあたりを総合すると、まだチャンピオンでいられると思うよ」
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マルセル・フグ
1986年、スイス生まれ。
生まれた時からの二分脊椎症で、幼い頃から車いす生活を送る。
10歳で車いすレースを始め、パラリンピックは08年の北京大会で初出場。
12年ロンドン大会で800mと車いすマラソンで銀2つ獲得。
リオでは金2、銀2、東京大会では金4つを獲得した。クラスはT54。