人間の限界を突破するための歩みが、また一歩進んだ。東京パラリンピック・陸上男子走り幅跳び(T64=ひざ下切断)で3大会連続の金メダルを獲得したマルクス・レーム選手(ドイツ)が今年6月、8m72の跳躍で自らの世界記録を更新した。ただ、彼にとってはそれも通過点に過ぎない。究極の目標は、1991年にマイク・パウエル(米国)が記録した8m95を破り、そして、人類初の9mジャンプを実現することだ。もはやライバルさえいなくなった、孤高のジャンパーの素顔に迫る。
8m72のパラ世界記録は失敗ジャンプだった
8月で35歳になった。走り幅跳びの選手としてはピークを超えていてもおかしくない年齢だ。にもかかわらず、健常者の世界記録まであと23cmまで迫った今年6月の大ジャンプについて、マルクス・レーム選手はこう振り返る。
「8m72のジャンプはあまり良いジャンプではなかった。着地のタイミングを間違えてしまったんだ」
現在、健常者の男子走り幅跳びの世界ランキング1位はミルティアディス・テントグルー選手(ギリシャ)で、今年の最高記録は8m52。レーム選手は、それを20cmも上回っていることになる。もはや、現役のオリンピック選手を含めても、レーム選手より遠くに跳躍できるアスリートはいなくなった。それでも、走り幅跳びにかける彼の情熱は小さくなることはない。
「私は、最高のアスリートになりたいだけです。最初は、走り幅跳びのパラリンピアンとして最高の存在になりたかった。それは実現しました。そして今では、健常者のアスリートを含めてもドイツで私より長くジャンプできる選手はいません。私がどこまでたどり着くことができるか。それが楽しみです。次の目標は、”伝説的な距離”のジャンプをすることです」
競争相手は自分自身しかいない。自ら打ち立てた記録を、自分自身で再び乗り越えるのみだ。その先には32年間破られていない8m95の健常者の世界記録がある。この記録を出したマイク・パウエル選手は、1992年に追い風参考記録(+4m)で8m99を跳んでいる。この大記録も強く意識している。
「これまで9mを超えるジャンプが記録されたことはありません。(9mを跳ぶことができれば)歴史的な出来事で、そのことが私のモチベーションになっています」
9mを超えるジャンプは容易ではない。厳しいトレーニングを重ね、体調を万全に整えて大会に挑んでも、風向きや気温の影響で力を出せないこともある。あらゆる事態を想定しながら、最善のトレーニングを重ね、本番への準備を整えるのが彼の流儀である。
世界記録を更新しても、喜ぶのはその時だけ。表彰式が終わり、競技場から帰りのバスに乗れば、コーチと反省会を始める。さらに良いジャンプにするためにはどうすればいいか、どこをどうのように修正するのか。徹底的に話し合う。
次の記録を狙うときは、3cmや5cmといった小さな目標を設定するために対策を練る。その小さな積み重ねが、9mという究極の目標に近づく道筋を形づくる。
「あなたが山に登るなら、一歩ずつ歩くことが大切です。山のふもとで頂上を見上げたら、大きすぎて登り始めることをやめてしまうかもしれません。大切なことは、最初の休憩所を目指すこと。そこにたどりついたら、次の休憩所を目指す。標高が高くなるにつれ、傾斜はきつく、空気は薄くなり、より困難になります。そして、頂上にたどりつくには、自らの体力だけではなく、天候や気温、風の強さなどの条件も整わなければならないでしょう。すべてがパーフェクトでなければなりませんが、それを実現するための探求が私の原動力になっています」
トレーニングプランは“カイゼン”方式
トレーニングでは、自らと異なる視点を取り入れることを重視している。コーチを務めるのは、現役時代は女子やり投げの名選手として知られたシュテフィ・ネリウスさんだ。2004年のアテネオリンピックでは銀メダル、2009年の世界陸上ベルリン大会では金メダルに輝いた実績を持つ。周囲からは「なぜ、やり投げの選手が走り幅跳びのコーチをしているのか」と言われたこともあったという。しかし、レーム選手は異分野の競技の選手だったからこそ、彼女を選んだ。
「シュテフィはパーフェクトです。新しいトレーニングのアイデアに対して常にオープンで、しかもそのアイデアをさらに良くするために、順序よく並べ、配置することができます。昨年は、ジムで身体を強くするトレーニングを重ねて、冬の間にとても良くなったんだ。それが今年の好調の理由だと思う。次の目標は、助走のスピードを上げること。そのために、私のことをまったく知らないトレーナーと会って、様々な意見を聞くことにしています。異なった視点からたくさん集めた意見をもとにプランを決めるのです」
過去の成功体験にとらわれず、良いと感じたものは積極的に取り入れる。この一連の作業は、日本の文化から学んだという。
「日本では“カイゼン“と呼ぶんだよね。本で読んだことがあって、とても気に入っているんだ。マイク・タイソン(ボクシング元世界ヘビー級統一王者)の言葉で『誰もがプランを持っている。ぶん殴られるまではね』という言葉も好きなんだ。誰でも試合前まではプランは持っている。しかし、リングで顔面にパンチを受けると、計画は台無しになってしまう。そして殴られ続け、ノックアウトされる。大切なことは、殴られたときにプランを変更すること。戦略を変え、別の解決策を見つける。怪我をしても、家でトレーニングを継続すればいいだけの話。私のチームは、状況に応じて迅速に戦略を変える選択肢をたくさん持っている。それが、私が過去数年間で学んだ最も重要なことなんだ」
異なる視点からの意見を積極的に取り入れ、現時点の環境に合わせてトレーニングの計画を“カイゼン”していく。そして、計画がうまくいかない時こそ、たくさんの意見を集めて独創的なアイデアを作り上げていく。危機の時を乗り越えられるかどうかで、アスリートの真価が問われるという。185cmの鍛え上げられた身体は、多くのスタッフの協力と緻密な計算をもとに造り上げられているのだ。
五輪出場にかわりに得た新しい夢
走り幅跳びの選手として強すぎるがために、騒動が起きたこともある。2014年のドイツ選手権では、8m24の跳躍で健常者を抑えて優勝した。すると、他の選手たちが、「義足でジャンプすることで記録を伸ばしている」とドイツ陸連に訴えるようになった。選手たちの訴えは認められ、レームはドイツ代表から外された。ドイツ陸連は、義足が有利に働いていないことを証明するようレーム選手に求めたが、逆に一体どのようなデータがあればそのことが証明できるのかについて尋ねると明確な回答はなかった。
一時はオリンピックへの出場を求めて社会に訴えたこともあったが、今は重要視していないという。その代わりに、別の夢を持つようになった。
マラソンの世界では、2時間を切ることだけに特化した非公認の大会がある。2019年には、オーストリアの首都ウィーンで開催された特別レースで、男子マラソンの世界記録保持者であるエリウド・キプチョゲ(ケニア)が人類初の2時間切りとなる1時間59分40秒を達成した。この大会は、開催日、開催時間を意図的に調整し、多くのペースメーカーや給水ポイントの拡充があるため、国際陸上競技連盟(IAAF)からは正式な記録として認められていない。それでも、人間の限界に挑戦し、2時間の壁を超えたことは世界を驚かせた。 レーム選手は、走り幅跳びでも同じような大会を開くことを考えている。
「標高が高く、最適な気温、そして風が強い。走り幅跳びの選手にとって最高の場所、最高の環境をつくる大会です。その大会には、歴史的なジャンプを実現したいと考える、ロングジャンプを愛するすべてのアスリートに参加を呼び掛けたい。国際オリンピック連盟(IOC)の協力は必要ありません。健常者も障害者も関係もない。すべては9mの壁をぶち破るための大会です」
レーム選手が実際に9mを飛んだら、健常者を超えた義足のジャンパーとしてさらに注目が集まるだろう。その時、世界はどう変わるのだろうか。
「私は、パラリンピアンであることを誇りに思っています。そして、パラアスリートには素晴らしい人がたくさんいて、伝えるべきストーリーがあります。だからこそ、私が9mを跳べば、パラスポーツの大会にもっとたくさんの人に競技場に来てもらえるようになるでしょう。もし、あなたが今までの世界で誰も実現していない最高のロングジャンプを見たいなら、パラスポーツの大会を見なければならないのですから」
オリンピック選手を超えたパラアスリートは、いつ誕生してもおかしくない。レームは、来年5月に神戸市で開催されるパラ世界陸上に参加する予定だ。世界最高の、そして歴史を塗り替えるロングジャンプが実現できるかが大会の最大の見どころとなる。
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マルクス・レーム
1988年ドイツ生まれ。
ウエイクボード練習中の事故で右の膝下を切断。
カーボンファイバーで作られたブレード型の義足を装着した
走り幅跳び選手であることから「ブレードジャンパー」の異名を持つ。
2012年ロンドン大会、2016年リオ大会、
2021年東京大会の走り幅跳びで金メダルを獲得。
現在(2023年9月)、8メートル72センチの世界記録を持つ。