まさに、それは「青天の霹靂」だった――。
2016年5月22日、世界選手権から帰国したその日の夜、瀬立モニカ選手の元に、1本のテレビ電話がかかってきた。数時間前に別れたばかりの西明美コーチからだった。「モニカ!監督から、リオの出場が決まったっていう連絡が来たよ!」「えっ……」何が起こっているのか、すぐにはのみ込むことができなかった。だが、諦めかけていた夢が叶う、そうわかった時、みるみるうちに目頭が熱くなり、涙がこぼれてきた。それは、4日前に流した涙とは、まるで違うものだった。
悔し涙から嬉し涙へ
リオデジャネイロパラリンピックで初めて正式採用となるパラカヌー。その最終予選を兼ねた世界選手権が、5月17~19日にドイツ・デュイスブルグで行われた。既に昨年の世界選手権(イタリア・ミラノ)で上位6人には出場枠が与えられていた。残りは4枠。昨年、初出場にしてファイナリスト9人に入った瀬立選手には大きな期待が寄せられていた。
一次予選を通過して臨んだ準決勝、そこには強力なライバルとの争いが待っていた。リオの出場枠4つのうち、2つは一次予選で好タイムをマークした選手に与えられたため、この時点で残るは2つとなっていた。準決勝、同組で出場枠を獲得していない選手のうち、一次予選で瀬立選手を上回るタイムを出していたのは中国とオーストラリアの2選手。瀬立選手はこの2人のうち、少なくともどちらかに勝たなければならなかった。
「Ready!……Set!」
スタートの合図を告げるブザーとともに、瀬立選手は勢いよく漕ぎ出した。途中、「モニカ!モニカ!」という声が聞こえてきた。帯同スタッフたちが、岸辺から大声援を送っていたのだ。その声に鼓舞され、瀬立選手の気持ちはさらに乗っていった。
「よし、いいぞ。いける!いける!」
過去一番の手応えを感じながら、一直線にゴールに向かって行った。
だが、後半に入ると、徐々に力強い漕ぎが薄れていった。
「100メートルを過ぎたあたりから、徐々に疲労で体が動かなくなっていきました。『いつもならもっと動くのに……』と思っているうちに、気づいたらゴール手前まで来てたんです」
果たして、出場枠を争う2人には勝っているのか。6コースの瀬立選手には、1コース、2コースの彼女らは見えておらず、全くわからなかった。すぐに電光掲示板に目をやると、そこには受け入れたくない結果が映し出されていた。1位に中国、2位にオーストラリアの選手が入り、瀬立選手は5位だった。
「負けたんだ……」
船台へと艇を漕いでいくと、そこには西コーチが待っていた。コーチの顔を見るや否や、瀬立選手は泣き崩れた。西コーチは何も言わず、いつものように瀬立選手を抱きかかえて車椅子に乗せてくれた。
しばらくして、西コーチは優しくこんな言葉をかけた。
「モニカ、悔しいのはよくわかる。でもね、まだ正式に発表されたわけじゃない。だから、最後まで諦めずに待とう」
数日後、まさにこの言葉が現実のものとなったのだ。
4日後、帰国の途に就いた一行は空港で解散をし、瀬立選手は自宅へと帰った。西コーチから電話が来たのは、18時過ぎのことだった。聞けば、中国の選手が失格となり、繰り上げで瀬立選手に出場枠が与えられることになったという。
「最初は信じられませんでした。いえ、今でも夢だったパラリンピックの舞台に立てるなんて、信じられないんです。本当に人生って何が起こるかわからないんですね」
「最後まで諦めない気持ち」が、瀬立選手をリオへと導いた。そんな気がしてならない。
自分に負けないレース
瀬立選手にとって、忘れることのできない、いや忘れてはいけないレースがある。1年前の世界選手権だ。決勝のレース、瀬立選手はスタートで艇が右方向に曲がるという大きなミスを犯した。その結果、一度スピードを落として、艇の進路方向を修正しなければならなかった。他の艇が加速していく中、瀬立選手は一人後れをとった。200mという距離では、もはや挽回する余地はなく、トップから約12秒後、8位の選手からも約7秒の差をつけられてゴールした。当初、進路方向が曲がった要因について、瀬立選手はスタートでの技術的なミスだった、と考えていた。実際、報道陣からの質問にもそう答えている。しかし、何度もレースのビデオを観ているうちに、そうではなかったことに気が付いた。
「レースでは、スタートの瞬間に『あ、ミスをした!』と思って慌てました。でも、ビデオで見る限り、スタートは決して悪くないんです。にもかかわらず、勝手に『ダメだ』と思い込んでしまった。それって何なんだろうって考えた時に、戦闘放棄だったんじゃないかって。無意識にですが、ミスをしたと思い込んで、勝負から逃げたんです。気持ちが曲がれば、当然、艇も曲がる。最低なレースをしてしまった、と思いました」
そのことに気が付いた時のショックの大きさは計り知れない。
「選手として、あるまじき行為」と瀬立選手は自分自身を責めた。そして、心に誓ったのだ。二度と同じ過ちは繰り返さないと。世界選手権後、彼女は携帯のトップ画面を、そのレースの結果が記されたタイムリストの画面にした。それを見る度に、気持ちを奮い立たせてきたのだ。
今年の世界選手権、緊張しながらも強い気持ちは少しも揺るがなかった。
「自分に負けるレースは絶対にしない」
艇は曲がることなく、しっかりとゴールへ向かっていった。そして、リオへとつながっていったのだ。
「コーチは太陽のような存在」
「コーチがいなければ、今の私はありません」
瀬立選手の競技人生に、西コーチは欠かすことのできない存在だ。今では、全幅の信頼を寄せている。
2人の出会いは、瀬立選手が中学2年の時だった。当時、学校でバスケットボール部に所属していた瀬立選手は、学校の先生に誘われるかたちで江東区のカヌー部にも参加するようになった。西コーチはカヌー部のスタッフの一人として指導にあたっていた。しかし当時、2人はそれほど深く接してはいなかった。西コーチによれば、瀬立選手はどちらかというとバスケ部の方に注力していて、カヌー部にはあまり顔を出していなかった。
しかし、高校1年の時、体育の授業での事故で障害を負った瀬立選手が、高校2年の時にパラカヌーを始めるとなった際、専任コーチを買って出たのが西コーチだった。
「退院して初めて顔を見た時、『あぁ、この子は色々と悩んだ末に、またカヌーを始めようと思ったんだろうな』と感じたんです。だから自分にできることはやろうと。ただ、それだけの気持ちでした」
とはいえ、健常の西コーチにとって、体幹を使うことのできない瀬立選手を指導することは簡単なことではない。自らが経験したことのないことがほとんどだからだ。同じカヌーでも、体幹や足の踏ん張りが効かない瀬立選手のクラスは、特に難しい。それでも可能な限り、瀬立選手の体になったつもりでイメージしてトレーニングメニューを考えているという。そして、それを瀬立選手自身がアレンジしていく。2人で試行錯誤しながら、ここまでやってきた。
瀬立選手が、西コーチとの関係がより深まったと感じているのが、今年3月に行われたハワイでの自主トレーニングだ。約2週間、2人は同じ時間に起きて、食事を共にし、そしてトレーニングに励んだ。夜は、同じベッドで寝た。瀬立選手は、より西コーチとの距離が縮まったような気がしたという。
「コーチは、楽しませてくれるし、怒ってもくれる。私にとっては、温かく包んでくれる、まるで太陽みたいな存在なんです」
そして、パラリンピックへの思いを訊くと、瀬立選手はこう答えた。
「支えてくれている人たちへの恩返しをしたいですね。特に、コーチを喜ばせたい。今では、コーチの喜んでいる顔が見たいからやっているようなところもあるんです」
約3カ月後、リオの地で、今度はコーチに嬉し涙を見せるつもりだ。
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瀬立 モニカ(せりゅう もにか)
パラカヌー・PKL1クラス/筑波大学体育学群
1997年11月17日、東京都生まれ。
体幹機能障害。中学2年から江東区のカヌー部に所属。
国体出場を目指していた高校1年の時、
体育の授業で倒立前転をした際にバランスを崩して転倒し、障害を負う。
退院後の2014年、高校2年の夏からパラカヌーを始める。
2014年、2015年と日本選手権で連覇を果たす。2015年世界選手権で決勝に進出。
今年のリオデジャネイロパラリンピックに、パラカヌーでは日本人で唯一出場する。