あの栄光から、早くも4年が経とうとしている――。
2012年ロンドンパラリンピック。ゴールボール女子は当時“世界最強”と謳われた中国を1-0で破り、団体競技としては日本のパラリンピック史上初の金メダルに輝いた。決勝ゴールを挙げたのは、安達阿記子選手。ボールの威力に関して、今も国内に彼女の右に出る者はいない。不動のエースとして安達選手は今、再び仲間とともに“4年に一度の戦い”に挑もうとしている。
確固たる自信のもとに生まれた金メダル
「自信」。
4年前、日本に金メダルをもたらした最大の理由が、そこにあったと安達選手は言う。
当時、中国はずば抜けた存在だった。その中国に、日本は本気で勝とうとしていた。それは「胸を借りるつもりで」というものではない。「中国に勝つことができるのは、自分たちだけ」という絶対的な自信があった。
「私たちは北京からの4年間、ロンドンの決勝で中国に勝って金メダルを取る、というイメージをずっと持ってやってきていたんです。しかも1-0という具体的なスコアまで、イメージしていました。おそらく、周囲は誰も日本が金メダルを取るなんて思っていなかったと思います。でも、自分たちだけは信じて疑わなかった。そういう気持ちの面での準備は、他国を圧倒していたと思います」
安達選手自身には、中国に負けないという自信を持てるものが、もう一つあった。ゴールボールという競技に対する思いの深さである。それを感じたのは、ロンドンパラリンピックの約1年前、日本代表として中国に遠征に行った時のことだった。
中国国内でトップの実力を持つクラブチームとの合同練習で、安達選手はある中国人選手からこんな質問を受けた。
「なんで日本の選手は、そんなに楽しそうなの?」
厳しい練習の中にも、日本人選手には明るい雰囲気が感じられたのだろう。それが中国人選手には不思議だったに違いない。
安達選手は当然のように、こう答えた。
「だって、ゴールボールが好きだから」
すると、「嘘でしょ?」とでも言わばんかりの表情をされたという。聞けば、中国では世界を目指している選手は皆、「やりたい」かどうかではなく、すべては「能力」次第。トップアスリートとは、そういうものなのだという。
その言葉を聞いて、安達選手には中国にはない強さが日本にはあると確信した。
「ゴールボールをすることが仕事で、パラリンピックで金メダルを取ることが自分たちの使命だと考えている中国は、確かに勝利への執着心は強い。『何が何でも勝つ』という気持ちが、プレーにも前面に出ています。でも、それって結局はやらされているんですよね。日本は違う。自分がやりたいからやっているし、金メダルを取りたいから、辛くても我慢できるし、努力もする。最後の最後、本当の勝負どころで自然と湧き出てくる強さって、そういうところから出てくるものだと思うんです。だから絶対に中国に勝てる。そう思いました」
パラリンピックの決勝という大一番で、日本はその強さをまさに証明してみせた。ロンドンでの金メダルは、決して奇跡ではなく、確固たる自信のもとに生まれた勝利だった。
メンタルの強さを見せた国際大会デビュー
安達選手が初めて日本代表として国際大会に出場したのは2007年、北京パラリンピックの世界最終予選(ブラジル)だった。長年、彼女を指導し、当時日本代表のアシスタントコーチを務めた江黒直樹コーチは、この時の安達選手の姿が忘れられないと言う。
「初めての国際大会となれば、緊張したり不安になったりするものだと思うんです。ところが、彼女にはそういう所が全くなかった。緊張どころか、必死になって相手から投げ込まれたボールを抑え込んでいくんです。すごい強心臓の持ち主だな、と感心しましたよ」
江黒コーチにとって、特に印象に残っているのは、地元ブラジルと対戦した3位決定戦だった。ブラジルの武器は、床に強く叩きつけて跳ねさせるバウンドボール。今では珍しくなくなったが、当時バウンドボールを投げる女子選手は世界でもそれほど多くはなかった。日本国内となれば、男子に数人いるくらいで、女子は皆無に等しかった。そのため、主力選手にとってもバウンドボールに対する守備は難しく、その試合でも日本は苦戦を強いられていた。
ところが、安達選手はそのバウンドボールを次々と抑え込んでいったのだ。
「正直、ディフェンスの姿勢なんかあったもんじゃなかったんです。でも、彼女は姿勢がどうとかよりも、とにかく点を取られたくないという一心だったんでしょうね。バウンドボールに必死に食らいついていました。技術はまだまだでしたが、勝負に対する気持ちというのは、当時から強い選手でした」
現実に気づかされた敗戦
今や不動のエースとして、代表チームを牽引する安達選手だが、忘れられない悔しい試合がある。2014年の世界選手権、トルコと対戦した3位決定戦だ。この試合は、上位3カ国に与えられるリオへの切符がかかった、大一番だった。
結果は、日本が0-3で完敗。しかも、いずれの失点も安達選手が絡んでいた。前半、後半で一つずつ、安達選手はペナルティを犯し、相手にペナルティスロー(ペナルティを犯した選手が1人で、相手からの投球を受けなければならない)を入れられてしまう。さらに後半、ラリーの中でも1点を失った。
「3点目は、私の膝に当たったボールが後ろに跳ね返って、ゴールに入ってしまったんです。一方、自分の攻撃は、すべて相手に抑えられてしまった。試合終了のブザーが鳴った瞬間、もう悔しくて悔しくて、涙が止まりませんでした」
悔しさとともに、安達選手の中にわいてきたのは、危機感だった。世界選手権4位という成績は、金メダルに輝いたロンドンパラリンピックが既に過去の栄光に過ぎないことを、まざまざと示していた。
「それまでは、『金メダリストとして、どうあるべきか』ということを意識していたのですが、世界選手権で負けた時に、それは違うなと思いました。挑戦者として、もっと成長しなければ、世界に勝つことはできない。そのことに気づかされたんです」
今もその時の気持ちは忘れてはいない。いや、忘れてはいけないと思っている。時々、その時の試合のビデオを観るのは、自分に喝を入れるためだ。
昨年11月に行われた、リオデジャネイロパラリンピックのアジア・パシフィック枠決定戦「アジア・パシフィック選手権」で優勝し、無事にリオへの出場権を獲得したのも、その敗戦での気づきがあったからこそ。パラリンピック本番も、安達選手は挑戦者として臨むつもりだ。
その一方で、やはり「金メダリストとしての意地」も見せたいと考えている。
「ロンドンでの金メダルが、まぐれだと思われたくないんです。だから、リオでは『やっぱり、日本は強い』というところを見せたいと思います」
果たして3度目となるパラリンピックは、安達選手に何をもたらすのか。勝負の時は、もうすぐそこまで来ている。
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安達 阿記子(あだち あきこ)
ゴールボール/リーフラス株式会社勤務
1983年9月10日、福岡県生まれ。
14歳の時に右目、19歳の時に左目に黄斑変性症を発症。
2006年、国立福岡視力障害センターに入所し、
先輩から誘われるかたちでゴールボールを始めた。
2007年には日本代表として北京パラリンピックの世界最終予選に出場。
翌年の北京パラリンピックでは予選敗退を喫した。
2012年ロンドンパラリンピックでは団体競技として日本初の金メダルを獲得。
決勝の中国戦では決勝点を挙げた。
リオデジャネイロパラリンピックの代表に内定している。