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陸上(短距離/中距離) 辻 沙絵

「挑む」楽しさ

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「挑む」楽しさ

いつのまにか、彼女にとって「走ること」が苦しみになっていた――

辻沙絵。2016年リオデジャネイロパラリンピック400m銅メダリスト。
まさに彗星のごとく、パラ陸上界に現れた彼女は、ハンドボールから陸上に転向してわずか1年半で世界のトップアスリートへと駆け上がり、「時の人」となった。

リオから帰国後、環境は一変した。
殺到するメディアへの出演や講演依頼への対応で、練習時間はほとんどなかった。
それでも、「日本のパラへの印象を変えたい」という気持ちが、「自分にできることはする」方向へと彼女を進ませた。

だが、その結果、辻選手にとって最も大切なものが失われつつあった。それは、「走ることの意味」だった。

ようやく思い出したのは、2017年3月。沖縄で行なわれた、日本体育大学陸上競技部の強化合宿だった。
久々に、トレーニングのことだけに没頭することができた日々は、「アスリート辻沙絵」を見つめ直す時間となった。

そして、辻選手は感じていた。
「まだまだ自分は伸びる」
久々に陸上の面白さを感じ、苦しかったけれど、充実した日々が、リオ以来、初めて走ることの楽しさを思い出させてくれた。

しかし、7月の世界選手権が近づくにつれて、辻選手を襲ったのは「恐怖」だった。
「リオでの銅メダルが本物だということを示さなければいけない」
そんな思いが、彼女の心を覆った。

そして、迎えた400m決勝。
レース前、辻選手は本気で逃げ出したいと思っていた。
そんな彼女を救ってくれたのは、水野洋子コーチのひと言だった。
「信じて待っているから」

「こんな自分を信じて待ってくれている人がいるのだから、逃げちゃダメだと思いました。もうやるしかない、と覚悟を決めることができたんです」

辻選手は、こうコーチに言った。
「必ずメダルを取ってくるので、信じて待っていてください」
フィールドに向かう辻選手に、もう迷いはなかった。

「前半からいく」と決めていた辻選手は、スタートから飛ばした。
最も外側の8レーンを走る辻選手は、最初のカーブを独走していく。
そして、最後のホームストレートに入ってからは、最後の力をまさに「振り絞り」、3着でゴール。
リオでの走りが本物であることを証明する「銅メダル」を獲得した。

そして帰国後、改めて「これから」を考えた時、沸々とわいてきたのはこんな気持ちだった。
「このままでは終われない……。やるからには、やっぱり金メダルが欲しい」
そう思えるからこそ、辻選手は走り続ける。挑戦することが、彼女にとっての「楽しさ」だからだ。

今、求めているのは、大きなストライドで、余計な力を入れずに、スピードをキープする走りだ。
特に大きなストライドでの走りは、「まだ自分のものになっていない」。
さらに、トップスピードに上げる早さも必要と考えている。

「まだまだやること、やれることはたくさんある。でも、だからこそ楽しいと思えるんですけどね」
挑戦することを楽しむ。それが、辻沙絵というアスリートだ。

OFF

「挑む」楽しさ

舞台が大きければ大きいほど、プレッシャーと緊張感が襲う。だが、走り終わった後の辻沙絵選手の表情や言葉には、高いハードルに挑むことへの爽快さを感じずにはいられない。
堂々とした姿、抑揚のある声からは、挑戦することこそが、彼女の人生そのものと思えてくるのだ。

そんな辻選手のバックボーンにあるのは、小学5年生から11年間、「生活のすべて」だったハンドボールにある。

辻選手の地元の中学校は、道内随一のハンドボールの強豪校だった。
彼女が入部を希望した際、顧問の先生にこう告げられたという。
「あなたに合わせて練習することはできない。特別扱いはしないからね」

厳しさの中に、「あなたを一人の選手として見ている」という温かいメッセージが込められていると、辻選手は感じた。それが、何よりうれしかった。

実際、辻選手に対して「特別扱い」は一切なかった。
「小学生の時は、楽しいというだけでやれていましたが、中学に入って本格的に競技としてやった時に、最初はボールをキャッチすることもうまくできなかったんです。だから、メンバーには全く入れませんでした」

それでも決して諦めずに、繰り返し練習を続けた。
そして一番厳しい練習メニューである走り込みの時には、率先して声を出し、先頭に立って走って、顧問の先生にアピールをした。
やがて、その努力が認められ、辻選手は試合に出られるようになっていった。

しかし、周囲の反応で悔しい思いをしたこともあった。
「相手校からは『あの選手は右腕がないから、どうせベンチだろう』というふうに見られることが少なくありませんでした。そういうのって、直に言われなくても伝わってくるんです。そういう時は、本当に悔しくて『試合で見返してやる』と思いながらやっていました」

そんなある日の試合でのことだ。
辻選手が投じた1本のシュートが、スパンと心地よくゴールネットを突き刺した。
左腕を振り上げながらジャンプした瞬間、辻選手にはゴールへと向かうボールの軌道が鮮明に見えていたという。

すると、顧問の先生はこう言った。
「沙絵、ゴールの向こうに太陽が見えたね!」

それは「努力した人には光がさし込む」という意味だった、と辻選手は理解している。
「先生は、『大事なのはやれるか、やれないかではなく、やるか、やらないか。挑戦し、努力すれば、あなたの先には光があるんだよ』ということを伝えてくれたのだと思います」

そのシュートの感触は今でも忘れてはいない。
挑戦することの意味を、そして楽しさを、改めて教えてくれた大切な1本となっている。

それはハンドボーラ―からランナーとなった今も、つながっている――。

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