彼は「本気」である――2020年東京パラリンピックで初めて正式種目として行われるパラテコンドー。その新種目にチャレンジし、4年後、日本代表として世界最高峰の舞台に立つことを目指しているのが伊藤力選手だ。今年7月、本格的な指導と練習環境を求め、家族とともに北海道から東京へ移住した。そんな「人生をかけて」東京パラリンピックを目指す伊藤選手に迫る。
きっかけは「チャレンジできることがある」喜び
わずか1年前まで、これまでまったく関わることのなかった「テコンドー」という競技でパラリンピックを目指す人生を送るとは、彼自身、思いもよらなかったに違いない。転機が訪れたのは、今年1月のことだった。もともと中学時代には剣道部、高校時代にはテニス部と、スポーツをすることが好きだった彼は、就職してからも休日には友人たちとフットサルを楽しんでいた。そんな中、2015年4月、職場の事故で右腕を切断。その時のショックの大きさははかり知ることができない。しかし、気持ちが整理されていく中、伊藤選手の中に湧き起こってきたのは「また体を動かしたい」ということだった。
「やっぱり、じっとしていると、マイナスなことを考えてしまったりするんです。でも、体を動かしていると、頭も心もスッキリするし、楽しいなと思えれば前向きな気持ちになれる。だから、また何かスポーツをしたいなと思ったんです」
退院して2週間後、伊藤選手は「アンプティサッカー」を始め、再びピッチに戻っていた。
そんなある日、テコンドー道場を開いている師範を知人に持つというアンプティサッカー関係者からこう言われた。
「2020年東京パラリンピックでパラテコンドーという競技が採用されて、今、選手を探しているらしい。君、やってみないか?」それまで、一度も格闘技に興味を示したことがなかったにもかかわらず、伊藤選手はその時、迷わず「やってみよう」と思ったという。その理由は何だったのか。
「もともと、僕は新しいことに挑戦することが好きな性格なんです。だから、結構すぐに『やってみよう』と思うタイプなのですが、その時も『今の自分でも、挑戦できることがあるのなら、ぜひやってみたい』、そう思えたんです。自分が東京パラリンピックを目指せるなんて、すごいこと。そんなチャンス、めったにないなと」
こうして、2016年1月、伊藤選手の新たな競技人生がスタートした。
敗戦で見えた“光”と“すべきこと”
実際にやってみると、テコンドーは「できないこと」「痛いこと」だらけだった。体の硬い伊藤選手には、テコンドーには必須である脚を高く上げることひとつとっても至難の業。稽古の翌日は、体中が筋肉痛で悲鳴をあげた。しかし、それらを上回るものがあった。
「練習でミットを蹴った時の気持ち良さがたまらなかった。最初は何もできなかったけれど、『楽しいな』と思えたんです」
続けていくうちに、相手のあるスパーリングで技が決まるようになると、さらに伊藤選手はテコンドーに夢中になっていった。
そんな中、伊藤選手の競技に対する思いに変化が生じたのが、今年4月に行なわれた「アジアパラテコンドーオープン選手権大会」(フィリピン・マニラ)だった。初めての公式戦として同大会に出場した伊藤選手は、初戦でモンゴル人選手に1-13(1-7、0-6)で2ラウンドコールド負け(1ラウンド90秒ずつの計3ラウンドでの合計ポイントを競う。12ポイント差がつくとコールド負けとなる)を喫した。相手は世界ランキング1位で、同大会でも優勝した強豪。一方の伊藤選手はテコンドーを始めて、わずか3カ月ということを考えれば、致し方のない結果と言えた。抽選で初戦の相手が決まった時から覚悟していたという伊藤選手も、「まるで象とノミでした」と完敗を認めた。もちろん、たとえ世界ランキング1位相手でも、負けたことには悔しさが募った。しかし、それだけではなかった。伊藤選手には一筋の光が見えていた。
「確かに完敗は完敗でしたが、それでも『これは、もう無理だ』とは思いませんでした。それよりも『これくらいなら、4年後は到達できるかもしれない』と思えたんです。というのも、大会直前にオリンピックの強化指定選手と一緒に合宿をさせていただいたのですが、その強化指定選手たちの方が強いと感じました。そういう選手たちと練習できるチャンスがある自分には、可能性があると思ったんです」
だからこそ、伊藤選手はある大きな決断を下した。本格的に競技をする環境をつくることだった。
「それまでは北海道でなんとか練習場所を見つけて、自分なりにやっていこうと考えていました。でも、それでは4年後にメダルを獲るなんてことは到底無理だなと。それで、練習環境が整っている東京に移って、本格的にやっていこうと決めました」
「楽しさ」だけでなく、「強くなりたい」という思いが、伊藤選手の心に広がっていた。
そして今年7月、家族とともに東京へ移住。人生をかけた競技生活が始まった。
競技の裏側にある「家族」という存在
伊藤選手が東京パラリンピックを目指した背景には、自らの好奇心だけでなく、1歳になった娘への思いがある。
「娘が大きくなった時、『お父さんは障がい者』というコンプレックスを持つようになるかもしれません。そんな時に、少しでも娘が『私の父です』と胸を張って自慢できるようなものがあれば、と。そのひとつが、東京パラリンピックでメダルを獲ることなのかもしれない。そう思ったんです」
そしてもう一人、2015年3月、事故に遇う1カ月前に結婚し、今は妻として母親として頑張ってくれている久美子さんの存在も欠かすことはできない。
「『東京に行こうかと思っている』と告げたら、反対することなく、『やってみたら』と言ってくれました。彼女のこのひと言がなければ、実現できなかったと思います」
北海道で生まれ育ち、一度も道外に出たことのない久美子さんにとって、それは決して簡単に決められることではなかった。「東京移住が現実になるにつれて、不安になり、実は北海道に残ろうかなと思ったこともある」という。それでも決意した裏側には、こんな思いがある。
「『将来、子どもにとって自慢できる父親になりたい』という思いを聞いた時、家族が原動力となっていることがすごく嬉しかったんです。それに、彼が何かに一生懸命になっている姿を見ることは、私自身の楽しみでもあるし、応援したいなと思っています。だから『きっと、どうにかなるはず!』と意を決しました」
こうして、1年前までは考えられなかった道を歩み始めた伊藤選手。現在の状況について、こう語ってくれた。
「もし、腕のある人生と、パラリンピックと、どちらを取るか、と言われたら、僕は迷うことなく『腕のある人生』を選択します。決して『腕を失くして良かった』なんてことはありません。それでも今、世界を、しかも自国開催のパラリンピックを目指すことができる自分は、運が良かったなと思っているんです。誰にでもあることではありません。だから、やれることは精一杯やりたい」
「本気」の覚悟で、4年後、金メダルを狙いにいく。
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伊藤 力 (いとう ちから)
パラテコンドー61kgs未満/株式会社セールスフォース・ドットコム所属
1985年10月21日、宮城県仙台市生まれ。
中学では剣道部、高校ではテニス部に所属。
高校2年の時に家庭の事情で北海道へ。
2015年4月、職場での事故により右肘上部を切断。
退院後、アンプティサッカーをしていたが、その関係者の紹介で、
2016年1月よりパラテコンドーを始める。
3カ月後の4月には「アジアパラテコンドーオープン選手権大会」に出場し、初戦敗退。
そのことをきっかけに、本格的な指導と練習環境を求め、東京移住を決意。
日本オリンピック委員会が行っている
トップアスリートの就職支援ナビゲーション「アスナビ」を活用して
セールスフォース・ドットコムに採用され、7月に家族とともに東京へ。
現在は、週に2日勤務し、週4日は都内の大学などで練習に励んでいる。