2015年11月から、“ブラサカ”の呼び名で知られるブラインドサッカーの日本代表キャプテンを務める川村怜選手は、出場を逃したリオ2016大会の悔しさをバネに東京2020大会で悲願のパラリンピック初出場。大会期間中は「毎日成長するチーム」を指針に掲げチームメイトを鼓舞し、攻撃の要として活躍した。プレー中の冷静な判断とキャプテンシーに長けたリーダーにブレない心の持ち方とブラサカの未来を語ってもらった。
日本ブラサカ史上に残る「奇跡のゴール」
近年のブラインドサッカー日本代表の飛躍を語るとき、欠かせないシーンがある。それは東京2020パラリンピックの5-6位決定戦。古豪スペインを相手に見せた「奇跡のゴール」だ。
前半終了間際、コーナーキックのチャンスを得た日本はキャプテン川村怜選手がコーナーから蹴った浮かせたパスに、突破力のある黒田智成選手が走り込みハーフボレーシュート。これが決勝点となって日本は1-0で勝ち、初出場のパラリンピックで5位に食い込んだ。
「あれはチームが一体となって生まれたゴールでした。目標にしていたメダル獲得は叶いませんでしたが、母国開催のパラリンピックで実力以上のパフォーマンスが発揮できて、満足はしていないけど納得はできました」
奇跡のゴールと言われるのには理由がある。
5人制のブラインドサッカーはゴールキーパーを除く4人のフィールドプレーヤー(FP)がアイマスクをしてプレーする競技だが、目の見えない選手たちにとって頼りとなるのは地面を転がるボールの“シャカシャカ”という音。
しかし、川村選手がコーナーから蹴った宙に浮いたパスは音が鳴りにくく、選手はボールの位置を捉えにくい。それにもかかわらず、川村選手はリスクを承知であえて浮いたパスを選択し、黒田選手がそれに合わせて難しいシュートを決めたのだ。
「音が聞こえない分、相手の反応が遅れるので、あえてボールを浮かせました。味方同士であれば普段から練習しているので、大体ここにパスが来るなと予測できます。ただ、再現性を考えると非常に難しい。でもあのときはイメージ通りの軌道でパスが出せて、黒田選手も迷いなくシュートを振り抜いてくれました。ニアサイドにも田中章人選手や佐々木ロベルト泉選手が走り込んでいて、チーム全員がイメージを共有できた瞬間だったと思います」
それは「絶対に勝って終わるんだ」と決めた男たちの執念のゴール。
この東京2020パラリンピックで得た手応えと自信は、大会から約1年後の「ワールドグランプリ in フランス」(2022年8月28日〜9月3日)準優勝に繋がり、さらにその勢いは今年11月にインドで開かれる「アジア選手権」に持ち込まれようとしている。
子どもたちの憧れの存在になりたい
川村選手は所属クラブのパペレシアル品川でもチームのまとめ役で、試合では監督のような役割も担う。そのため実力のある代表経験者がチームを引っ張るケースが多いのだ。
川村選手も例外ではなく、数々の国際大会で培った豊富な競技経験とキャプテンシーでチーム全体を率いる。
考え方の根底にあるのは「何のためにサッカーをするのか」。これが日本代表になると「何のためにメダルを取るのか」が加わる。
「理由の一番は、ブラインドサッカーを含むパラスポーツの影響力ですよね。目の見えない自分たちがかっこいいプレーをして、大舞台で勝ってメダルを取る。その姿に子どもたちが憧れてくれたら、社会にもっと多様性が生まれ、障害のあるなしにかかわらずチャレンジの場が増えると思うんです」
かつての川村選手がそうだった。
5歳でぶどう膜炎を発症し7歳から視力が著しく低下したが、さほど苦にすることなく小学校の頃は少年サッカーに夢中になった。
時代は1990年代。Jリーグの開幕や1998年フランス大会で日本代表がワールドカップ初出場を果たすなど、サッカーが脚光を浴び大いに盛り上がった時期だ。
スポーツ好きの両親がスタジアムにも連れて行ってくれたといい、「自分は大阪出身なのに、黄金期だったジュビロ磐田の中山雅史選手のゴンゴールに憧れました」と笑う。
「ゴン中山」の愛称で人気だった元プロサッカー選手の中山氏は闘志あふれるプレーが特長で、ゴールへの執念が生み出すゴンゴールが多くのファンを魅了した。
強度の弱視だった川村選手も観客が沸き立つスタジアムの空気を肌で感じ取り興奮したという。
あいにく中学のサッカー部でプレーするのは難しく、陸上部に入って中距離走に励んだが、大学でブラインドサッカーに出合うことができ、再びサッカーの道へ。
クラブチームに入り、日本代表メンバーになる過程で、「自分も子どもたちに憧れられる存在になりたい」と強く思うようになっていった。
冷静に勝利を追求するキャプテン
いつも冷静に勝利を追求する川村選手には「ブレないキャプテン」というイメージが定着している。それはメンタルトレーニングで考えを整理する術を身につけたり、トップアスリートや成功している経営者らに学ぶことで自身の考え方や言動を磨いてきたりした成果だ。
「例えば僕は野球のイチロー選手がずっと好きで、『小さいことを重ねることが、とんでもないところへ行くただ一つの道』という言葉にとても共感しました。大きなことを成し遂げるには、やはり日々の小さな積み重ねが何よりも大事。時間はかかっても遠回りこそが達成への一番の道だと思っています」
ブレずに目的に向かうために「生活のリズムを作ること」も心がけているという。
「朝、目覚めたら布団の上でぼーっとしながらストレッチをして、頭と体を起こします。それが6時半ぐらいで、そこから朝食を摂って、布団を畳んで整理して、歯を磨いて。ルーティンというほどではないですけど、毎日同じことを淡々と続けることでリズムが整ってきます」
そのスタンスは、サッカー大国のブラジルやアジア最強の中国といった強敵と戦った東京2020パラリンピックでも変わらなかった。
厳しい短期決戦で勝ちを意識するあまり余計な力が入ったチームメイトに川村選手は「今日もサッカーが上手くなろう。毎日成長しよう」と声をかけ続けた。いつも通り自分たちの力を出し切ろうという意味だ。
この言葉によって肩の力が抜けた選手たちは自然体で戦うことができ、冒頭で川村選手が言った「実力以上のパフォーマンスを発揮できた」という振り返りにも繋がった。
日本代表チームは今、パリ2024パラリンピック出場を目指し、東京大会で見えた課題に取り組んでいる。例えばフィジカルの強化がその一つ。
「特にブラジルやアルゼンチンといったパワーのある南米チームは1対1のときの強度がものすごいので、それに対応できるフィジカルが必要です」
加えて、次世代の育成・強化も着々と進む。
川村選手の世代は20歳前後でブラインドサッカーを始めたが、近年では日本ブラインドサッカー協会や各クラブの普及活動の効果で、小学1年生からブラインドサッカーを始める子どもたちが少しずつ増え、ひと桁の年齢でボールを上手く扱えるゴールデンエイジが育ってきているという。
川村選手も、「全国各地にクラブチームができ始めているので、自分も育成強化に携わっていきたいというのが目標の一つ」と話す。
先達が切り拓いてくれたブラインドサッカーの歴史。それを受け継いだ自分が今度は多くの経験と実績を添えて次世代に引き渡す。そこにはやはりパラリンピックのメダルが必須だ。
「パリでは準決勝以上に必ず残って勝負がしたい。世界最高峰の舞台で、世界一強度の高いプレーをしてメダルを取りたいですね」
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川村 怜(かわむら りょう)
1989年2月13日生まれ。大阪府東大阪市出身。
パペレシアル品川 所属。
アクサ生命保険株式会社 広報部 勤務。
2007年、18歳のときに大学のサークルでブラインドサッカーと出合う。
同年から2019年までAvanzareつくば所属。
2013年に全盲と診断されるも、日本代表に初選出され、
2015年11月にキャプテンとなる。
2021年開催の東京2020パラリンピック5位。