ATHLETES' CORE

地に足をつけて、浮かれず、おぼれず、冷静に

峰村 史世さん
ATHLETES' CORE

峰村 史世さん 一般社団法人日本身体障がい者水泳連盟 理事/日本代表ヘッドコーチ

青年海外協力隊で赴任したマレーシアでパラ水泳の指導に携わり、2004年アテネパラリンピックにはマレーシアの代表監督として参加、今では日本代表チームの監督としてチームを率いる峰村さん。マレーシアをはじめとしたこれまでの経験、日本のパラ水泳を取り巻く環境、そして、2020年とその先を見据えて彼女が考えていることについて、お話を伺った。

頭に浮かんだのは3歳から続けてきた「水泳」

頭に浮かんだのは3歳から続けてきた「水泳」
頭に浮かんだのは3歳から続けてきた「水泳」

青年海外協力隊に参加し赴任したマレーシアで、パラリンピックを目指す選手たちの水泳指導を任されたことがきっかけです。
漠然と海外に興味があって、大学生になると所属していたライフセービングのクラブがオフ期間に入る度に、1カ月ほどバックパックを背負って色々な国を回ったりしていました。その内、「海外へ行きたい」という気持ちが「住んでみたい」に変わって、自然と青年海外協力隊の参加を考えるようになったんです。「遊び半分では参加できない、自分に何ができるだろう」と思ったとき、頭に浮かんだのは3歳から続けてきた「水泳」。地元のプールでコーチのアルバイトをしながら、水泳指導の勉強をし、参加のチャンスを狙っていました。大学卒業から1年ほど経ったころ、マレーシア行きが決まりました。
実は、マレーシア派遣は2度経験していますが、2002年の2度目の派遣の時、「障がい者スポーツに関する調査をする任務」と聞いていたのに、現地でマレーシア代表選手の水泳指導を任されることに。この時、マレーシアでは2年後のアテネ大会に向け、強化のために全国各地から選手を招集したタイミングでした。
それまで、大学の実習やクラブのボランティア活動の一環で、障がいを持つ人に水泳指導をしたことはあっても、パラリンピックを目指すような「選手」を指導したことはありませんでした。指導する選手は20人ほど、それぞれ障がいも種目も違うので、それぞれの障がいについての知識、ルールに大会規約にと、戸惑う間もなく勉強しました。日本で障がい者水泳に携わっている先輩を頼ったり、とにかく必死で。その結果、アテネ大会はマレーシアの代表監督として参加しました。この時、追い込まれながらも必死で積み上げた経験が、今、日本の代表監督としての活動に生きてますし、私が障がい者水泳に携わり続ける理由になっています。

多民族国家で宗教が入り混じるマレーシアならではの経験

多民族国家で宗教が入り混じるマレーシアならではの経験

今でも思い出すのは、イスラム教のラマダン(断食)の時期とマレーシア代表選手にとって重要な国際大会がかぶってしまった時ですね。代表チームの中にイスラム教の選手がいたのですが、水泳は水の中に入るので、飲食が禁止されたラマダンの時はNG。つまり、基本的には期間中1か月は、十分な練習はできず、大会に出ることも難しい状況です。国の代表であるという誇りや責任と信仰する宗教の間で彼ら自身、非常に悩みました。最終的に彼らは出場することに決めましたが、もし、この時、彼らが欠場をいう判断をしていたら、監督として代表選手から外す判断をしなければいけませんでした。多民族国家で宗教が入り混じる国ならではの経験でしたね。
代表監督としては、チーム全体への指導というより、選手一人一人の練習に入り向き合いながら、「無理って言うけど、本当にできないのかな。100%は無理でも、50%なら頑張れるかもしれない。障がいを生かすことで、速く泳げないかな。」と一緒に試行錯誤を繰り返しました。マレーシアの選手たちの特徴は、自己主張が強いこと、そして、急に代表に呼ばれた選手でも国を背負っているという意識があることです。言語が違うので、うまく意図が伝わらず選手と言い合いになることも日常茶飯事。それでも、一緒にプールで過ごしていると段々、意思疎通ができるようになり、タイムや結果が出るようになったんです。それが楽しかったですね。今思うと、技術は未熟でも選手たちも私も「マレーシアを背負っているんだ」という誇りを持っていたから、最終的に同じ方向を向けたのだと思います。だから、今も選手と細かく細かくコミュニケーションをとること、日本代表チームの一人一人が国の代表であるという意識を持つことを大切にしています。

色々なことは言うけれど、一番最初に逃げたのは私だった

色々なことは言うけれど、一番最初に逃げたのは私だった
色々なことは言うけれど、一番最初に逃げたのは私だった

現地で代表監督をしていた2003年の時点でマレーシアは、オリンピックもパラリンピックも青年スポーツ庁の管轄で、各競技の代表選手たちはナショナルトレーニングセンターを使って共に練習していましたし、結果を出したときの報奨金も同じ。障がいがあっても無くても「何かあったら自分の責任」「自分でやれることはやる、困ったら迷わず助けを求める」それが当たり前だったので、障がいの有無を感じることはほとんどありませんでした。しかし、帰国後、JPC(日本パラリンピック委員会)で働きながら選手指導を続ける中で、選手が「設備が整っていないという理由で車いす選手は受け入れられない」と断られ練習場所の確保に苦労したり、「きついなら無理しなくていいよ」と周りの人がすぐに助け船を出し選手を甘やかしてしまったりする様子を見て、「日本ってアスリートとして、頑張るのが難しい国かもしれない」と感じることが増えました。
私が水泳を始めたのは3歳の頃で、小・中学校までは全国レベルの選手でした。でも、中学の後半から伸び悩み、高校に入ってすぐに水泳を辞めてしまいました。今、指導者として選手たちに「逃げるな」「もっとやれる」と色々なことを言いますが、一番に逃げたのは私です。その時、水泳を辞めたことは後悔していませんが、逃げたって事実を受け入れ、自分で認められるようになるには時間がかかりましたね、少なくとも目の前の選手たちにはそんな思いはしてほしくないです。強くなりたい、勝ちたいと思うなら、人の3倍4倍5倍努力するのは当然だし、それでも結果が出ず悔しい思いをすることもある、国を背負って戦えば、いい成績なら持ち上げられ、悪い結果を出せば叩かれる。それがスポーツの世界で、それはパラスポーツのアスリートも一緒だと思います。
2020年東京大会が決まってから、定期的に練習ができる施設が増えたり、選手育成に力を入れたりと、日本の障がい者水泳を取り巻く環境は大きく変化しています。しかし、環境がいくら整っていってもそれだけでは世界では勝てません。メダルを狙う位置で活躍できる選手になるためには、本人が常に「自分はアスリートだ」という意識を持って行動すべきだと思います。一度、逃げてしまった苦い経験と世界の選手たちが競技にどう向き合い、戦っているのか肌で感じてきたからこそ、それを痛感します。だから、私は悪者になっても選手たちに厳しいことを言い続けようと思っています。

本気で頑張りたい選手の力になりたい

本気で頑張りたい選手の力になりたい

日本に戻ってきた2005年から、3大会連続でメダルを獲得した鈴木孝幸選手の指導を続けていますが、彼の活躍を見て「パラリンピックを目指して頑張りたいから練習を見てほしい、指導してほしい」という若い選手が増えたので「峰村パラスイムスクアッド」というチームを作りました。合宿を組んで集中して練習をする環境が作れたり、チームとしてリレーへ出場したり、個人ではなくチームだからこそサポートをしてくれる企業が出てきたりと、選手が練習や実戦経験を多く積むことができるからなんです。2020年が終わって、日本の中でパラスポーツがどうなっているかなんて誰もわからないと思いますが、本気で頑張りたい選手の力にはなりたいし、力になれる場所としてチームがあればいいし、それは2020年東京大会に関係なく自立して存続していける仕組みになっていなければと思っています。だから、練習を見ている選手からは、障がい者水泳のコーチとして指導料をきちんともらってプロとして責任もって指導しています。
2020年東京大会が決まったことで、大きく動き出した日本のパラスポーツ界。組織も現場も、ここから逆戻りせずに、ちゃんと歩いて行けるような障がい者水泳、パラスポーツ界にしていかなければならないと思っています。パラスポーツに携わる人が増え、競技を超えて色々な人たちと話をする機会が増えました。悩んだり、真剣に考えているのは自分だけじゃないんだなぁと心強くなることもたくさんあります。その度に、そうやって関わっている人の想いは大きな力になるな、と感じています。一方で、世の中が盛り上がれば上がるほど、現場にいる私たちが、地に足をつけて、浮かれず、おぼれず、冷静にいなければいけないと思っています。実は、そこが一番のストレスで、本当は性格的にも今の流れに思いっきり乗っかって、グイグイ前に進んでいきたい気持ちもあります。でも、パラリンピックって容易に目指せるような軽いモノじゃない、そう自覚しているので「調子に乗るなよ」と常に危機感を持っていようと思います。

PROFILE
  • Profile image.

    峰村 史世(みねむら ふみよ)

    一般社団法人日本身体障がい者水泳連盟 理事
    パラ水泳日本代表チーム 監督
    MINEMURA ParaSwim Squad ヘッドコーチ

    1971年群馬県生まれ。
    青年海外協力隊員として、マレーシアで水泳指導を行なう。
    その後再びマレーシアに戻った時に、パラ水泳の指導を本格的に始める。
    2004年アテネパラリンピックには、マレーシアの代表コーチとして参加。
    2005年より日本でのパラ水泳指導活動を始め、
    2008年北京、2012年ロンドンの両パラリンピックには、
    日本代表チームのヘッドコーチとして参加。
    昨年の2016年リオデジャネイロパラリンピックには、監督としてチームを率いた。
    障害者水泳チーム「MINEMURA ParaSwim Squad 」を2013年に結成。
    これまでに2名のパラリンピアンを輩出してきている。
    現在は、日本代表監督と自身のチーム指導と2足のわらじを履きながら、
    日々パラ水泳の指導・普及・発展に努めている。

  • Profile image.

    所属先:一般社団法人 日本身体障がい者水泳連盟
    設 立:1984年4月
    本部住所: 〒651-0085 神戸市中央区八幡通4丁目1-15 成樹ビル303
    東京事務所:〒107-0052 東京都港区赤坂1-2-2 日本財団ビル4階
          日本財団東京パラリンピックサポートセンター内
    事業内容:障害者水泳の普及・発展・振興、およびパラ水泳の強化育成指導に取組むとともに、
         障害をもつすべての人が生涯にわたってスポーツを楽しむことができる、
         環境整備と共生社会の実現に寄与する
    URL: http://new.paraswim.jp/

TOP