高校からフェンシングを始め、大学1年の時にはインカレ(全日本学生選手権)で7位入賞をしたほどの実力の持ち主だった藤田道宣選手。翌年は全国の頂点に立ち、U20日本代表に選出されることを目標としていた。事故に遭い、車いす生活となったのは、その矢先のことだった。しかし、彼は競技人生の幕を下ろさなかった。「フェンシング」から「車いすフェンシング」へーー剣を手に、運命を切り開いてきた藤田選手の姿を追った。
アスリートとして成長を促した恩師からの一本の電話
子どもの頃からスポーツが好きだった藤田選手は、小学生の時はサッカーやソフトボールに興じ、中学校ではバレーボール部に入った。熊本の親元を離れて越境入学した京都の平安高校進学後も、1学期の間はバレーボール部に所属した。しかし、同じクラスの友人の話に興味を持ったことをきっかけに、1年の終わりにフェンシング部へと移籍した。
平安高校フェンシング部は全国屈指の強豪校で、当時一学年上には後にオリンピックで2つの銀メダルを獲得した太田雄貴現日本フェンシング協会会長がいた。そんななか、同期の中では誰よりも遅く始めたというハンデをものともせず、努力の末に3年時にはインターハイ(全国高等学校総合体育大会)への出場を果たした。
龍谷大学でもフェンシング部に入部した藤田選手は、1年生でいきなりインカレで7位入賞。この快挙に驚いたのは、本人だけではなかった。高校時代に師事し、藤田選手が最も影響を受けた恩師、飯村栄彦コーチはこう振り返る。
「高校時代は遅れて入部したにもかかわらず、3年ではちゃんとインターハイに出場しました。それだけ努力したという証だなと感心していましたが、それでもまだ粗さが目立っていました。その藤田が大学に入ってすぐにインカレで7位入賞ですからね。正直、驚きました。ただ、彼は高校時代から負けん気の強さがありました。普段は温厚な性格ですが、試合になると荒々しさが出てくるんです。そういう勝負に挑む気持ちが、今も昔も変わらない藤田の強さだと思います」
しかしその翌年、不慮の事故で車いすでの生活を送ることになった。それでも「意外と落ち込むことなく次の道を進むことができた」という藤田選手。それは、恩師や先輩が教えてくれた「車いすフェンシング」の存在があったからだった。
なかでも飯村コーチは、退院後に車いすフェンシングを始めたものの練習環境がままならない藤田選手が、週末には母校の平安高校フェンシング部で練習できるようにと、高校に車いすフェンシングの設備を手配し、後輩たちと一緒に練習できる環境を整えてくれた。
しかし、初めの5年ほどは試合に出ても、なかなか勝つことができずに苦しんだ。実は、藤田選手には選手として大きなハンデがある。車いすフェンシングには障がいの程度によって、クラスが3つに分けられている。脊椎損傷で下半身だけでなく体幹もまったく機能しない藤田選手は、最も障がいの重いCクラスの選手だ。だが、国内外ともにCクラスの競技人口はわずかで、試合では一つ上のBクラスでの勝負が常だ。そのため、藤田選手は頭のどこかで自分よりも障がいの軽い選手たちと剣を交えなければならない状況を勝てない理由にしていたところがあった。
「もちろん、実際にハンデは小さくはありません。僕たちCクラスの選手がBクラスで勝つのは並大抵のことではない。ただ、そんなこと言っても何も始まらないんですよね。そこで勝てるようにするしかない。それはわかっていたのですが、当時は自分の障がいを負けた言い訳にしてしまっていたんです」
そんなある日のこと。突然、一本の電話がかかってきた。飯村コーチからだった。しばらく連絡を取っていなかった恩師からの電話に、緊張が走った。
「いったい、なんだろう……」
恐る恐る電話に出ると、人伝に藤田選手の様子を聞いた飯村コーチからこう言われた。
「勝てないことを障がいのせいにするなよ」
コーチの言葉は厳しかったが、そこには自分を思う温かさが伝わってきた。そしてこの言葉に、ハッとさせられた。勝負の世界に言い訳を作ってしまっては、成長することはできない。気づいていながら逃げていた自分を、コーチが引き戻してくれた気がした。
「やってみなければわからない」が生み出した雪辱の勝利
パラリンピック競技の一つである車いすフェンシングは、下肢に障がいのある選手が行う競技だ。「ピスト」と呼ばれる装置に競技用車いすを固定させた状態で行うため、足を使って相手と距離をとることができない。常に至近距離での戦いが強いられ、スピーディな剣さばきが求められる。それが何よりの魅力だと感じている藤田選手。目標は、パラリンピック出場だ。しかし、2012年ロンドン、2016年リオデジャネイロと、過去2大会は世界最高峰への切符を手にすることはできなかった。
そこでリオ後、新たな環境に身を投じる決意をした。大学卒業後は大学院に通い、学生だった藤田選手には金銭的支援はなく、年間数百万円かかる遠征費をほぼすべて自費で賄っていた。そのため試合数を絞らざるを得ず、パラリンピック出場のためのポイントレースでは不利な状況だった。
「これでは国際大会の経験値も上がらず、世界に勝つことはできない」
そう思った藤田選手は2016年8月、高校以来拠点としてきた京都を離れて上京を決意。東京の企業にアスリート社員として入社し、競技に専念できる体制を整えた。さらに東京に拠点を移したメリットはもう一つあった。練習環境だ。頻繁にナショナルトレーニングセンターでオリンピックを目指す選手たちに交じって練習することができるようになり、質も量も海外の選手に劣らない練習環境を手に入れた。
その甲斐あって、大きくステップアップしたのは18年だ。その4年前のアジアパラ競技大会(韓国)では8位が最高位だったが、18年の同大会(インドネシア)ではフルーレで銀メダル、エペで銅メダルを獲得した。さらにワールドカップカナダ大会でもフルーレで表彰台(3位)に上がった。
そして昨年、最も手応えを感じたのは、5月にブラジルで行われた国際大会。2回戦で190cmと長身のうえに左利きの世界ランキング4位(当時)、同大会で銀メダルを獲得したロシア人選手との試合だ。リーチの長さだけで身長175cmの藤田選手は不利であることは明らかだった。実際、2年前の試合では2-15と惨敗した相手でもある。ふつうに戦って勝てる相手ではないことはわかっていた。
そこで藤田選手は“常識破り”の秘策を用意した。一般的に使用されているものと比べて2cmほど短い剣だ。一般的には中学生でも使用しない、初心者の子どもが使用する剣だった。周囲からは「そんなの何の効果もない」と全否定されたが、一切気にしなかった。「やってみなければわからない」。そう思っていたからだ。
「本当にある時ふと思いついたことでした。“長身選手相手に逆に短い剣を使ったらどうなんだろう?”と思ったんです。剣を買ったお店の人もすごく驚いていましたし、周りからはマイナスな評価しかありませんでした。でも、僕は一度疑問に思ったことは試してみないと気がすまないタイプ。実際に練習で使ってみたら、結構手応えがありました」
結果的に勝つことはできなかったが、それでも13ー15という接戦に持ち込んだ。車いす同士の距離が通常よりも短くなったことで、かえって相手はリーチの長さが仇となり、逆に藤田選手は剣さばきのスピードが増したことがプラスに働いたのだ。それは、体格や障がいの程度で優位に立つ相手に対しても、豊かな発想力で勝負できることを示していた。
大幅に改良した車いすで挑む東京パラリンピックの選考レース
今年予定されていた東京パラリンピックは1年後に延期となった。出場権獲得のための選考レースは、本来は2018年11月にスタートし、今年5月までとされていた。しかし、新型コロナウイルス感染拡大の影響で、2試合を残して中断。現段階では来年の春に残る2試合を行い、ランキングが確定して選考結果が出る予定だ。
現在、藤田選手の選考ランキングはフルーレ12位、エペ23位、そして選考に最も重要とされる2種目を掛け合わせたランキングでは、フルーレとエペで9位につけている。だが、確実に出場権を得るためには最低でも8位以内には入っておきたいという。そのためには、延期となっている試合が再開するまでに、さらにレベルアップを図る必要がある。
そこで今春、自宅での自粛期間中にトレーニングとともにあることに着手した。競技で使用する車いすの大幅な改良だ。一つは両脚を載せるフットレスの高さを上げ、膝を抱え込むように両脚を4cmほど体の内側に倒した。これによってこれまで試合中も強く出ていた痙性(筋肉が緊張して硬直し突っ張りなどの症状を起こすこと)を抑え、さらに骨盤が起きて姿勢が良くなった。
もう一つ大きく変化を加えたのが、左手で握る車いすのバーだ。「ピスト」と呼ばれる装置に車いすを固定させて行う車いすフェンシングでは、自由に距離を取ることはできない。そのため、剣を持つ反対の手で車いすのバーを握り、上半身を前後左右に動かして間合いを取っている。通常、左右のバーはタイヤと同じ方向に取り付けられているが、今回、藤田選手は左手で持つバーを外側に開くように角度をつけた。その理由を、こう説明する。
「ピストに設置された車いすと車いすは、真っすぐに向かい合っているのではなく、お互いに相手が右に110度の角度で向き合うようにして設置されているんです。つまり、攻撃する時には剣を斜め右に出すようにするんです。そうすると、勢いで体が開いてしまい、相手の左側、つまり外側に剣が流れてしまうんです。それでも体幹が効く選手は微調整できるのですが、僕はできないので、左腕の力でグイっと体を引き寄せなければなりません。ただ、それでは剣に体重を載せてパワフルな攻撃ができない。そこで最初から剣を出す角度を内側に持っていくために、左手で持つバーを外側に開くことを思いついたんです」
藤田選手によれば、バーの角度を変えた車いすは世界でも見たことがないという。「バーは平行に付けるものと思っているのかもしれません」。こうした常識を常識のままで終わらせない豊かな発想力、いわゆる“常識破り”は彼の専売特許であり、レベルアップを図ってきた要因でもある。
実際に改良した車いすを使用しての練習では、大きな手応えを感じている。一番はこれまで活かしきれていなかった背筋も使える体勢を整えられたことだ。
「常識を疑って、試すことができることというのは、まだたくさんあると思います。それをトライできるのは、東京パラリンピックが延期になったからこそ。来年に向けてさらに強化して、東京パラリンピックの切符をつかみたいと思います」
現在、パラリンピックを目指し、Bクラスで戦いに挑むCクラスの選手は、世界に藤田選手と韓国人選手の2人しかいない。そしてそもそも藤田選手と同じ程度の重い障がいのある人にとって競技の選択肢は非常に少ないのだという。そんな現状を自らの力で打開したいと考えている。パラリンピックに出場すること、そこでのメダル獲得を目指すのは、自らの強さを示したいからだけではなく、同じ障がいの人たちの視界を広げたいからだ。
「僕が活躍する姿を見て、『自分もできるかもしれない』『挑戦してみようかな』と思ってもらいたい」
車いすフェンシングの伝道師として、勝負に挑み続けていく覚悟だ。
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藤田 道宣(ふじた みちのぶ)
車いすフェンシング/日本オラクル株式会社
1986年11月22日、熊本県生まれ。
平安高校1年時にフェンシングを始め、3年時にはインターハイでベスト16。
龍谷大学1年時にはインカレで7位入賞した。
大学2年の夏に海水浴に行った際に頸椎を損傷し、下半身麻痺となる。
退院後に車いすフェンシングを始め、
2010年のアジアパラ競技大会(中国・広州)で国際大会デビューした。
その後、パラリンピックを目指して数々の国際大会に出場。
2018年アジアパラ競技大会(インドネシア・ジャカルタ)では
フルーレで銀メダル、エペで銅メダルを獲得した。