ATHLETES' CORE

興味があれば即行動。目指すはパリで連続表彰台

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パラトライアスロン

 彼には華やかな舞台がよく似合う。とりわけ東京2020パラリンピックで手にした銀メダルは、ここ一番の爆発力がある宇田秀生選手の真骨頂。2015年のデビューイヤーもそうだった。6月の国内大会でいきなり2位に入ると、わずか2カ月後のアジア選手権で国際デビュー。なんと優勝してしまった。9年前、仕事中の事故で右腕を失って以来、宇田選手を突き動かしてきた原動力と勝負強さの秘密に迫った。

目標からの逆算と実践で着実に成長

目標からの逆算と実践で着実に成長
目標からの逆算と実践で着実に成長

 2021年8月28日、午前7時半過ぎ。東京2020パラリンピックのトライアスロン競技が行われていたお台場で一つのドラマが生まれた。その主役はパラリンピック初出場の宇田秀生選手。

苦手のスイム(0.75km)を8位で上がった出遅れを得意のバイク(20km)とラン(5km)で取り戻し、2位フィニッシュ。この見事な逆転劇は日本トライアスロン界にオリンピックとパラリンピックを通じ初のメダルをもたらした。

フィニッシュ後、汗と涙でぐちゃぐちゃになりながら、その場にしゃがみ込んだ。「いろんな思いが込み上げてきて(涙を抑えるのは)無理でしたね。怪我をしてからずっと支えてくれた家族や友達にちょっとは恩返しできたかなって、ホッとしました」と当時を振り返る。

 パラリンピックのような節目の大会後、モチベーションを落としてしまう選手は少なくないが、宇田選手はコンスタントに練習を継続できているという。「もともと気持ちの作り方は上手い方だと思います」と話すが、その秘訣はかつてのサッカー経験にあるようだ。
2歳上の兄の影響で小学1年生のときにサッカーを始めた宇田選手は高校時代、出身地である滋賀県選抜でプレーし、大学にもスポーツ特別枠で進学したほど将来を期待されたストライカーだった。

「なりたい自分を決めてそこから逆算し、何をやるべきかを考える。その一つ一つに情熱を持ってクリアしていく楽しさをサッカーで覚えました。トライアスロンは練習の成果が全てタイムに表れるので、成長を感じやすくて面白いですよね」

ナショナルチームの強化合宿などを除いては基本的に単独練習をしている宇田選手。一人きりでモチベーションを維持するのは容易ではなさそうだが、「小さな喜び=日々の成長をちゃんと感じること」で地道な練習も続けられるという。

しかし、その一方では「四六時中、張り詰めているのは無理。ゼロのときは完全にゼロ」とも言い、ゼロのときは「体も頭も競技から離れて息子たちと遊びます」と、8歳と5歳の愛息を持つ父親の顔ものぞかせる。

人生が一変した大事故と妻の支え

人生が一変した大事故と妻の支え

 宇田選手が障がいを負ったのは2013年5月10日の朝。当時勤めていた建設会社で右腕をベルトコンベヤーに巻き込まれる大事故に遭った。
すぐさま病院に運ばれ、生死の境をさまよった宇田選手はほんの5日前、妻・亜紀さんと婚姻届を提出したばかりだった。しかも、亜紀さんのお腹には新たな命が宿っており、希望に満ちあふれた新婚生活は途端に一変した。

「病室で目覚めたときは、生きててよかったと思いました。あの事故のことはいくら時間が経っても変えられないけれど、価値観は変わったかもしれません。自分が事故に遭い怪我をしたことで、いろんな障がいのある方たちと出会い、話をして気づきがたくさんありました。今は、どっちの世界も見られて得しているなって思います」

 一番大きな気づきは、人々の視線だった。
「僕、右腕を失くしてから、めっちゃ見られるようになったんです。その視線がものすごく冷たい。特に日本ではそう感じますね。海外遠征先で街を歩いていても、もっと思いやりがあるというのかな。だから僕は逆にどんどん外に出かけて、みんなの視線を集めてやろうという作戦に出たんです」

「根っからの負けず嫌いなんで」と言ってニヤリとする宇田選手。

しかし、家族まで奇異の目で見られることは耐え難かったといい、「大切な妻と息子に少しでも嫌な思いをさせるのは本当に辛かったです」と振り返る。だが、そのかたわらで「大丈夫よー」と笑い飛ばしてくれたのは、亜紀さん。「なんとかなるよ」が愛妻の口癖で、今も変わらず宇田選手を前向きな気持ちにさせてくれるという。

この経験から、見た目や立場の違いに対する寛容さは幼少期に養われるものだと実感した宇田選手は、小中学校や高校からの講演依頼を積極的に引き受け、自身のことやパラスポーツで得た経験などを話して聞かせ、違いによって生まれる人間の面白さを子どもたちに伝えている。

パリ2024大会で連続表彰台を目指す

パリ2024大会で連続表彰台を目指す
パリ2024大会で連続表彰台を目指す
パリ2024大会で連続表彰台を目指す

 ただでさえハードなトライアスロンを左腕一本でやってのける宇田選手は、術後のリハビリに水泳を取り入れたことがきっかけでトライアスロンと出合った。

「実は手術が終わって目覚めた5日目ぐらいに『パラリンピック、出られるかもね』って、冗談交じりに妻と話していたんです。そのときはまだパラトライアスロンのことは知らなかったんですけど、スイム仲間がパラスポーツにもトライアスロンがあるよと教えてくれました」

 スポーツが好きで、なおかつ「興味のあることは即行動」という宇田選手。

すぐさま滋賀県トライアスロン協会に問い合わせ、第1回びわ湖トライアスロンin近江八幡にエントリー。練習会を経て出場したレースは、「死ぬほど苦しくて、最後のランはびっくりするぐらい走れなかった。これがトライアスロンの厳しさかと思い知った」と顔を歪めるが、初レースにしてパラ部門2位という驚きの成績を挙げた。

 またこのとき、日本トライアスロン連合(JTU)パラリンピック対策チームのリーダー(現:JTUパラトライアスロンハイパフォーマンスチームディレクター)で、宇田選手が現在も師事する富川理充コーチに出会い、「次に何をすればいいかアドバイスをもらえました。あの場に富川さんがいなければ、僕のトライアスロン人生はあの大会で終わっていたかもしれない」と運命的な出会いに感謝する。

 そんな宇田選手の目標はパリ2024パラリンピックでの連続表彰台。それには東京2020大会でも課題だった泳力の向上が必須で、「片腕でも波に負けず、目標物に向かって最短距離で泳げるようにしたい」とスイム技術の強化に余念がない。

 また競技成績に加え、「精神的にも経済的にも自立したパラアスリートのモデルになりたい」とも言い、パラスポーツを通じて人生を楽しむ姿を精力的に発信している。
例えば、宇田選手のオフィシャルWEBサイトはスタイリッシュでかっこいい。Instagramにも競技風景やイベント活動の様子はもちろん、日常の素顔が見えるフォトジェニックな写真が並ぶ。自身と競技の魅せ方をしっかりと意識し、セルフプロデュースしているのだ。

「たくさんの人に応援してもらって本当に幸せ者です。でも、なかには活動費が足りず競技を辞めてしまう選手もいて。自分がもっと応援してもらえる選手になれれば、パラトライアスロンの、ひいてはパラスポーツの普及にもつながるんじゃないか。そう信じてパリ2024大会でも表彰台を目指します」

PROFILE
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    宇田 秀生(うだ ひでき)

    1987年4月6日生まれ。滋賀県甲賀市出身。
    NTT東日本・NTT西日本所属。
    2013年、仕事中の事故で利き腕の右腕を切断。
    半年後、リハビリの一環で始めた水泳をきっかけにトライアスロンに出合う。
    2015年6月「第1回びわ湖トライアスロン in 近江八幡大会」でレースデビュー。
    同年8月「ASTCアジアパラトライアスロン選手権」で優勝。
    その後も立て続けに入賞を重ね、2017年7月に世界ランキング1位。
    東京2020パラリンピック(PTS4)で銀メダルを獲得。

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