「いったい、どこまで伸びていくのだろう……」
彼のパフォーマンスを見聞きする度に、そんな底知れぬ期待感が湧いてくる。山本篤選手、33歳。短距離、走り幅跳びで世界の強者たちと同じステージで戦い続けている日本、アジアのパラ陸上界を代表するアスリートだ。特に幅跳びは好調だ。昨年は、7月のパラ日本陸上選手権でアジア新記録を更新。さらに10月の世界選手権では大会新記録で優勝した。彼にとって3度目のパラリンピックとなるリオデジャネイロ大会まで、残り8カ月。今、山本選手は自らの伸びしろを感じながら、本番への準備を着々と進めている。
陸上人生は、挫折からのスタートだった
山本選手は、子どもの頃からスポーツ万能で、何をやらせても、誰よりも上達するのが早かった。しかし、最後にはコツコツと努力する友人に抜かれてしまうのが常だったという。それでも「まぁ、自分はこんなものだろう」と、それ以上に努力することはあまりなかった。そんな彼が、初めて挫折を味わい、自らの限界に挑戦したのが、陸上競技だった。
山本選手は高校3年になる直前の春、バイク事故で左足の大腿部を切断し、義足を履き始めた。それをきっかけに義肢装具士になろうと、高校卒業後は専門学校に入学。そこで知ったのが、競技用義足で行うパラ陸上の世界だった。自然と目指し始めたのは、2年後の2004年に控えていたアテネパラリンピック。山本選手は順調に力を伸ばし、2004年3月の最終選考会の時には100メートルの日本記録保持者となっていた。だが、選考基準とされた標準記録には届かず、代表には選ばれなかった。
それまで、スポーツならどんな競技でも、誰よりも先に結果を得ることができていた。しかし、その時は他の義足選手たちが代表に選ばれる中、自分は落選。そんなことは、初めてだった。
しかし、それがかえって陸上への気持ちを高めることとなった。山本選手は、本格的に競技をするため、内定していた就職を取りやめ、大阪体育大学に入学。陸上部に所属し、一般の選手とともに汗を流した。そして4年後の北京パラリンピックでは、100メートルで5位入賞。さらに走り幅跳びでは、銀メダルを獲得。それは、パラリンピックの陸上競技において、日本人の義足選手では史上初のメダルという快挙だった。
「義足の選手で、代表漏れを経験しているのは、実は僕だけなんです。僕は、みんなが経験していない悔しさを味わった。でも、だからこそ、義足で初めてのメダリストにもなれたのだと思っています。それに、もしアテネに行くことができていたら、おそらく僕はこんなにも陸上にはまってはいないし、こんなに努力もしていないと思うんです。あの時の挫折があるからこそ、今の僕がある。その思いは、まったく変わっていません」
初めて目の前に現れ、跳ね返された壁。それこそが、「アスリート山本篤」を作り上げる土台となったのだ。
金メダルの裏で起こっていたアクシデント
昨年10月、カタール・ドーハで行われた世界陸上競技選手権。山本選手は100メートルでは5位に終わったものの、走り幅跳びでは見事優勝し、早くもリオデジャネイロ行きの切符を獲得した。しかし、実はこの日、彼の体には異変が起きていた。1本目の跳躍の直前、軽く走ったその時、腰に痛みが走ったのだ。
「前日から、微妙な違和感はあったんです。でも、まぁ、なんとかなるだろう、と思っていました。試合当日、アップの時も助走練習の時も何ともなかったんです。ところが、1本目を跳ぶ直前になってピキッときた。もう、どうすることもできない。こんな時に最悪だ、と思いました」
しかし、競技中に彼の異変に気付いた者は、おそらく誰一人いなかったに違いない。3本目で6メートル18を記録し、トップに躍り出た山本選手は、最後の6本目で大会新記録となる6メートル29をマークし、見事金メダルを獲得したのだ。競技後、クールダウンをしようと隣接されたサブトラックに移動した時には、立ち上がることも、歩くこともできないほど腰は悪化し、翌日の200メートル準決勝は棄権を余儀なくされた。そんな状態で、なぜ大ジャンプすることができたのか。
「もちろん痛みはありましたけど、競技中はアドレナリンが出ていたので、なんとか跳べたという感じでした。あとは、腰痛が負けた時の言い訳になるかなと思えたことも良かったのかもしれませんね(笑)。いい意味で気持ちを楽にして跳べたのだと思います」
彼は飄々と、「そんなにたいしたことではないですよ」とでも言わんばかりの口ぶりでそう語ってくれたが、「言うは易し、行うは難し」である。突然の、しかも本番直前でのアクシデントにも気持ちを振り回されることなく、競技に集中する精神力。山本選手には、それがある。だから、強いのだ。
小さくはなかった、ロンドンでの気づき
しかし、その精神力の強さは、一朝一夕でできたものではない。さまざまな経験を積み上げてきたものであることは言を俟たない。そのひとつが4年前のロンドンパラリンピックだ。
世界ランキング1位で臨んだ2度目のパラリンピック。前回大会で銀メダルを獲得していた幅跳びでは、否応なく金メダルへの期待は高まっていた。そして、山本選手にも自信があった。ところが、蓋を開けてみると、5位という予想外の結果に終わった。果たして、何があったのか。実は、山本選手の心の内は自信と不安とが入り混じっていた。
「世界ランキング1位と言っても、記録を出していたのは、国内の大会であって、国際大会では一度も6メートルを跳んでいなかったんです。それでも、自分では『絶対にいける』と思っていましたが、やはり不安があったのだと思います」
周囲の選手が、1、2本目と早い段階で好記録を出す中、山本選手はなかなか力を発揮できず、記録は5メートル台に留まっていた。徐々に自信は焦りへと変わり、自分自身への疑念へとなっていった。
「決して、調子が悪いわけではない。6メートルを跳ぶ力もある。なのに、なぜ記録が出ないんだ……」
結局、その答えは最後まで見つからなかった――。
しかし、そのロンドンパラリンピックでの経験は、その後の精神面での強さをもたらすきっかけとなった。ロンドンパラリンピックを機に、彼はあることを止めた。それは、競技中に他の選手の跳躍を見ることだった。
「それまでは他の選手のことが気になって、特にライバルの選手の跳躍は見ていたんです。ロンドンでも、じっと見ていました。でも、それが余計に焦りを生み出してしまっていたのかなと。それに、そもそも不安だからこそ、他の選手が気になってしまうわけですよね。だから、もう見ないことにしたんです」
昨年の世界選手権、トップの山本選手を追いかけて、ライバルが最後の跳躍に臨もうと走り始めた瞬間、既にスタート地点で順番を待っていた山本選手は、ライバルにクルリと背を向けた。ただただ、集中力を高める姿がそこにはあった。結果的にライバルはファウルとなり、その時点で山本選手の優勝が確定した。しかし、彼の集中は切れなかった。それが腰痛を抱えながらの大会新記録という大ジャンプにつながったのだ。
山本選手は言う。
「あの最悪な体のコンディションの状態で、あそこまで跳べたのだから、万全だったらもっといっていたはず。まだまだ自分には伸びしろがあると感じました。いったい自分はどこまで伸びるんだろう。今、そう思えるんです」
技術面はもちろん、精神面においても、ロンドンからひと回りもふた回りも成長した山本選手。2016年9月、3度目のパラリンピックに挑む。
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山本 篤(やまもと あつし)
陸上競技T・F42クラス/スズキ浜松AC所属
1982年4月19日、静岡県生まれ。
小学校では野球チームに入り、中学、高校ではバレー部に所属。
高校2年の春休みに起こしたバイク事故により、左足の大腿部を切断。
高校卒業後に進学した義肢装具士になるための専門学校で
競技用義足に出合い、陸上を始める。
本格的に競技をしようと、
2004年に大阪体育大学体育学部に入学し、陸上部に所属した。
スズキに入社した2008年には、北京パラリンピックに出場し、
100メートルで5位入賞、走り幅跳びで銀メダルを獲得。
2012年ロンドンパラリンピックでは100メートル、200メートル、
走り幅跳びに出場するも、メダル獲得には至らなかった。
2015年世界選手権、走り幅跳びで優勝し、
今年のリオデジャネイロパラリンピック出場が内定した。